“Sphinx Legacy” 編纂記 第19回
加藤英夫
出典:”Sphinx”,1915年3月 執筆者:Laurence W. Spitari
CATALOGUE APPARATUS vs. NATURAL OBJECTS
The title of this article conveys a very vague idea of just what it is all about. Nevertheless, the question is an important one. During the last few years, Chris Van Bern, Owen Clark, and, more recently, Cecil Lyle, have shown us that successful tricks, or shall I say apparatus, can be made from common objects which are in every day use.
Personally, I greatly admire and respect the three gentlemen named, but at the same time I cannot help thinking that, if all magicians tabood the apparatus which we find listed in the various magical catalogues, the magic show would lose a deal of its attractiveness and beauty (I hold no brief for the dealer). I do not for one moment imagine that this will ever be the case, as, unfortunately, there are too many old-fashioned magicians for that, and again, it would be well-nigh impossible, for the public would not like it, and back would come the old catalogue apparatus.
I say “the public would not like it,” and I say it with a reason. I have repeatedly heard the remark, “I like to see those mysterious- looking things on the table”—mark the words, “mysterious- looking things,” therefore, rob the magic show of its mysterious looking things and it is shorn of half its mystery.If a man invents a new effect which involves apparatus which is mysterious-looking, provided the effect is worthy, I admire him just as much as I would had the apparatus been just a natural object. I myself have produced various original effects with natural objects, and with but one exception, they have proved “winners.”
Do not let it be thought, therefore, that I am against them—I simply think it would be dangerous in the case of a magician doing, say, an hour’s magic show in a drawing-room, if he doesn’t include something which looks mysterious. In a music hall turn, lasting fifteen or twenty minutes, of course, the danger is lessened, but still it remains, so let us all try to give a show with both catalogue apparatus and natural objects.
この執筆者は、何人かのプロマジシャンから聞いた話として、人工的な道具を使うマジックよりも、日常生活に使っているような道具でやったマジックの方が、客受けする確率が高い、というようなことを述べています。それが正しいとしたら、その理由はいったい何なのでしょうか。自然物なら、仕掛けの存在が疑われることがないからでしょうか。
自然に存在する物でマジックを演ずることと、マジック用に作られた道具を使って演ずることと、どちらがよいかということにおいて、私の意見を述べても仕方ないかもしれません。人によって好みが異なるからです。
しかしながら、マジシャンの好みが異なることはわかっていますが、一般の人々においてはどうであるかということを考えなければいけません。むしろマジシャンの好みはどうでもよいのです。より多くの一般の人々が好むのはどちらであるかを考えることに意味があると思います。
かと言って、一般の人々にアンケートを取ることも現実的ではないので、一般の人が好むかどうか、私たちで考える必要があると思います。ということで、やはり私の意見を書かせていただくことにいたします。
色々と考えてみましたが、その結論は’色々考える必要はない’ということでした。どちらがよいということではなく、自然物で演ずるマジック、人工物で演ずるマジック、それらをミックスして演ずるマジック、それらどれもがうまく演じられればどれも優れたマジックであり、どれも味わいのあるものなのです。異なるタイプのマジックを比較して、どちらがよいかと断定するのは、スライハンドマジックとイリュージョンのどちらが優れているか、というのと同じようなことではないでしょうか。
私の個人的な好みを言うことが許されるなら、私はどちらかというと、人工物を使うマジックの方が好きです。その方が、その道具自体に不思議さを感じることができるからです。自然物だけで演じるマジックで驚かされたとき、不思議だと感じる対象物は何なのでしょうか。怪しむ対称は何なのでしょう。怪しむ対称があってこそ、そこにミステリアスな雰囲気を感じることができるのではないでしょうか。
よくMagic Cafeなどで、テンヨーのプラスチックの道具を使うようなマジックは、本当のマジックではないなどという意見も聞かれます。私は言いたいです。「本当のマジックって存在するの」って。けして人工的な道具を使わないマジックであったとしても、不自然な動作に満ち溢れているものだってたくさんあるのです。そのようなものを批判しないで、道具だけを批判するのはいかがなものでしょうか。
私は人工的な動作でさえ否定いたしません。それを否定するとしたら、バレイなどはすべて否定することになります。人工的に生み出された動作であるからこそ、そこに’美’が生まれるのです。人工的に作られた物や人工的な動作を使うからこそ、独特の不思議さが生み出されるマジックというものもあるのではないでしょうか。
人工的な道具を使うことが自然物を使うことより劣る、などという論理が正しくないことは、この編纂記の前号(No.18)で紹介した、’Bewildering Blocks’ を思い出せばわかることです。あれはまったくの人工物です。数字を描いたブロックを作り、それを入れる筒を人工的に作ったからこそ、あのような奇々怪々な現象が実現したのです。だいたいイリュージョンに使う道具は、ほとんど人工物だと言っても過言ではありません。
演技するときに、”ナチュラルな振る舞い方で演技しなさい”というようなことを教える人もいます。観客から見て、演技者の動作がその人にとってナチュラルであるかどうかなんて、わかるはずがありません。それよりも、どのようなキャラクターとして演ずるか決めて、そのキャラクターに合った振る舞い方をする方が、エンタテイナーとしては魅力を発揮できるのではないでしょうか。もともと’ART’とは、’人工物’という意味もあります。しかもマジックとは、もともと自然界に存在しないものを表現するARTなのです。
(つづく)