日本最古の奇術写真

長野栄俊

松旭斎天一による奇術「十字架の磔」の様子を写した写真があります。(撮影年:明治20年代前半)
十字架の女性を槍で突くと、女性は血を流し絶叫の後に絶命。ところがその後、別の場所から蘇生して登場する、という手順です。
絶命後の手順と登場の手順にバリエーションがあったようです。

拙稿「松旭斎天一の新出写真資料について」から画像を転載します。

上段の写真は以下の文献にも掲載された有名なものです。
・平岩白風『舞台奇術ハイライト』1961「最古の奇術の舞台写真」
・青園謙三郎『松旭斎天一の生涯』1976「日本最古の奇術写真」
・松旭斎天洋『奇術と私』1976「明治時代のマジックショーの音楽団』
2011年、天一の四女・久保満子さんのお孫さん宅(福井県内)で、長く行方がわからなくなっていたこの写真のオリジナル・プリントを見つけました。
その後の調査で上記の文献に掲載された写真は、いずれも天洋が後に複製した写真を転載したものであったことが判明しました。
拡大してみると、天一の帽子に「ICHI」の文字が確認でき、また背後の壁に「天一」の旗がかかっていることもわかります。
「最古の」の冠は新資料の出現により、たやすくひっくり返ってしまいますが、発表した時点では、日本最古と見なしました。

このことが新聞等で報じられて間もなく、福井市立郷土歴史博物館の学芸員・西村英之氏から、最古の写真の彩色されたものを江戸東京博物館で見た記憶がある、との情報をいただきました。
2012年、江戸博で調査したところ、確認できたのが、添付画像の下段の写真です。
横浜写真と呼ばれるこの手彩色された写真により、以下の点が判明しました。
・「最古の写真」には実は左半分があったこと
・槍は両側から突いていたこと
・天一の衣装の刺繍の色
・刺殺される女性が胸を露わにした半裸であったこと
・実際に流血していたこと(血糊ですが)
・撮影したのは横浜のファルサーリ商会であること
いくつかの点は、新聞記事等でも文章で記されていたことでしたが、この写真によってそれらが裏付けられました。

このあたりの詳しい経緯については、下記の拙稿のうち第四章をお読みください。

■「松旭斎天一の新出写真資料について」2013年

十字架の磔は明治10年代に何人かのマジシャンが演じていました。
彼らの多くが耶蘇服を身につけていたことが新聞記事や絵ビラなどから明らかになっています。
当時、西洋手品とキリスト教のイメージが不可分であったことは興味深いことだと思います。

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