“Sphinx Legacy” 編纂記 第29回
加藤英夫
出典:”Billboard”, 1920年1月24日号 執筆者:S.S. Baldwin
親愛なるWilliam Hilliar様、あなたはマジックから超自然的要素を除外しても、マジックとしての魅力は失われないと言われましたが、それはまったくの間違いであると思います。このことについて、私は世界中のどの人よりも、確固たる経験を持っていると断言できます。
もちろんそのことについては、マジックを演ずるときの条件が関係しています。ヴォードヴィルのように、限られた短い時間で演ずるときには、そのような演じ方でも観客を飽きさせることはないでしょう。そのような単発のアクトではなく、ショー全体がマジックで構成されている場合、それは’魔法’がバックボーンにあるべきです。それら2つのケースはまったく異なります。マジックというプロフェッションが始まったその昔から、超自然的要素がまったくない演技は、興行的に成功したものはひとつもなかったと、私は言わせてもらいます。
たとえヴォードヴィルのアクトであっても、「これからひとつのトリックをお見せしましょう」などというセリフを言ったら、観客の興味はそれを聞いただけで失われてしまいます。’トリック’という言葉を使うだけで、これからやることが種があることだと告白しているのです。
マジシャンが観客に感じさせなければならないことは、マジシャンが、人知も超えた才能の持ち主であると感じさせることです。かのMadame Ellisの夫が、「私の妻がこれから面白いトリックをお見せします」と言ったら、それは観客の興味をかき立てるのではなく、失わせることになるのです。それは、Anna Eva Fay、Frimins、Alexanderについても言えることです。
ロンドンのJ.N.Maskelyneなどは、霊媒たちのやり方を暴露しているにもかかわらず、彼のレビテーションのアクトなどにおいて、超自然な仕草で女性が眠ったように見せてから浮揚させています。そのことが、催眠術とか超自然的パワーを表現している以外の何なのでしょうか。キャビネットの中で不思議なことが起こる、Kellarの’Casandra Propaganda’のおいては、霊魂が現れるという演出が使われています。
私自身の経験においては、私は超自然的なパワーを使っているとは公言しませんし、そのようなものがあることをほのめかしもしませんが、私のアクトにトリックが使われているということを言ったり、感じさせたりもしていません。ふるまいやセリフの中に、超自然というまでではないとしても、不思議な雰囲気をかもし出すようにしています。
超自然的パワーや神の力を持っているなどと公言することは、もっとも愚かなことであり、そのように言うことは、即座に反論を引き出すものであり、マジシャンとしての成功に致命的な間違いなのです。そのようなことは、マジシャン自身が言うのではなく、一般の人々に言われるのが望ましいのです。
[中略]
大衆の中に、”超自然的なパワーが存在するかもしれない”という思いが存在することは、私たちマジシャンにとっては、かけがえのない財産なのです。以上のようなことから、ヴォードビルやライセウムのパフォーマーのように、トリックを上手に演ずるだけのマジシャンは、大々的なマジックショーにおいては、成功しないのです。それが私が45年のプロマジシャンの経験からの結論です。
この記事を読んで、FISMのコンテスト採点基準のひとつの’Magical Atmosphere’に関係あるような気がしました。FISMではその要素の配点は、全体の5%です。念のためにFISMにおける’Magical Atmosphere’の定義を確認したら、つぎのように記載されていました。
Does the performer evoke a feeling of wonder, surprise and mystery in such a way that the audience cannot detect the secret or dexterous handling that causes it and therefore can only attribute it to magic?
Is it an act that is primarily ‘magic’ in nature? Are magical events taking place throughout the act, or are they mainly supporting another form of entertainment?
一言で言えば、現象がトリックで行われている気配を感じさせないことと、アクトが’Magic in nature’であるかのように見えるかどうかということです。
’Magic in nature’を日本語にするのは困難です。’Nature’というのは人工的に対して、自然的という意味ですから、”自然界で起こるマジックのように見える”と定義しているような感じがします。
自然界ではマジックというのは存在しないものです。ですからこれをFISMの人たちの気持ちを汲んで解釈するすれば、’本当の魔法のように見える’ということではないでしょうか。しかし本当の魔法というのもこの世には存在しません。魔法というのは、私たちの想像の世界にしか存在しないものです。
そのように考えると、このFISMルールの定義は、私にはまったく非論理的に感じられます。むしろ最初の定義、”トリックで行われている気配を感じさせない”だけで、十分その要素の意味を断定できると思います。
とは言え、マジックというものが(私たちの想像の中にいる)魔法使いがやっているように見える、ということが多くのマジシャンの目的であるとしたら、そのルールはそれなりに意味が感じられます。ヘクター・マンチャのアクトを思い出せば、間違いなく彼の演技は、’Magic Atmosphere’で5%を獲得していたに違いありません。
しかしながらここでマジックというものが、魔法使いを表現するものであるという、根本的な定義がはたして今日の社会で適切でしょうか。いまや誰だって、マジックにトリックがあることを知っています。もはやYouTubeによる、現象だけ見せるマジックは、魔法ではなく、たんにパズルの出題に成り下がっています。
そのようなものが表出すればするほど、魔法使いを感じさせるマジシャンの存在を陳腐化させつつあるような気がしてなりません。
(つづく)