“Sphinx Legacy” 編纂記 第81回

加藤英夫

今回は、ほとんど私の考えをお伝えする内容になっていますが、エンタテイメントとしてのマジックにおいて、たいへん重要な観点だと思われますので、取り上げさせていただきました。

出典:”Sphinx”, 1913年1月号 執筆者:Kobb

Ching Ling Fooの素晴らしいショーを見た観客の声に、マジックの不思議さについて考える糸口があります。

私は先日、New Yorkに駆けつけて、なぜマネージャーがマジシャンに対して週に$2,000も支払うのか、その根拠を確かめに行きました。Ching Ling Fooは素晴らしい中国人であり、巧妙なマジシャンであり、なかなかのショーマンであります。彼は3種類のマジックをやりましたが、それらは布から品物を取り出すプロダクションマジックでした。どれもが素晴らしいものでした。

彼が布を持って床の上で転がると、彼の手には金魚が入った大きな水鉢が持たれています。観客の拍手は最大になります。二人の紳士が私の後ろに座っていましたが、そのうちの一人が言いました。「彼は衣装の中に水鉢を隠していたんだ」。するともう一人が言いました。「そうです。でもいったいどうやってそれを取り出せたんだい」と。それはマジックにおいて、新しい魅力であります。マジックの面白さは不思議さにすべてかかっているわけではないのです。

Kobbはときどき、’ドキッ’とすることを言います。最後の一言、”マジックの面白さは不思議さにすべてかかっているわけではないのです”という表現は、”マジックの面白さは不思議さ以外の要素にもかかっている”ということを言いたいのではなく、”やり方の原理が薄々わかっても、それを実際にどのようにやったか見当もつかないという状態が驚きを与える要素だ”ということを指摘しているのです。

わかりやすい例をあげれば、ペン・ドラゴンズの’Metamorphosis’です。このイリュージョンを見た人は、箱の中に入っていた人が布の陰で入れ替わり、箱の上に立っていた人が箱の中に入るのだ、と想像がつきます。しかしそれが実施可能とは思えないスピードで行われるから、そこに驚きが生じます。

人はマジックを見せられたとき、意識的にしろ無意識的にしろ、やり方を想像します。マジシャンの動作の見かけが想像したのと同じだとわかったとき、不思議さは生まれません。たとえばフレンチドロップで何かを消失させたあと、反対の手ですぐそれを再現させたとしたら、”本当に取ってなかった”という客の想像が正しいことを証明することになるのです。

そのようなことを考えると、マジックは想像がつかないぐらいうまくやることよりも、ある程度想像できるような進め方をして、最後にはその想像通りではなかったとする方が、驚きが強いということになります。

想像がつかないようなことを連続してやると、かえって不思議さのインパクトが減少する場合があります。たとえばヘクター・マンチャのマジックは、ほとんどのマジシャンがいっさいやり方を見ぬ抜けないほどのやり方をしています。すご過ぎて途中からやり方を想像するのをあきらめてしまいます。一般の人々ならなおさらです。怪しさの気配がいっさいないマジックを見ると、まるでCGで作成した現象を見るような感覚になります。

そのようなことを考えると、「種のことなど考えずに、不思議な現象をお楽しみください」というようなスタンスでマジックを演じるのではなく、「やり方を想像しながら見てください」というスタンスでマジックを演じる方が、現象のインパクトをより強く感じさせられるのかもしれない、という考え方も浮かびます。

[後日追記]

以上の私の書いた文章を読み直して、観客がマジックを見るときの心理状態についてもっと考察する必要があると思いつきました。

自分自身がマジックを見るときの状態を思い出してみると、極端に言えば、「種を見破ってやるぞ」という気持ちで見ることもあれば、それとは正反対に、種のことなど考えずに見る場合もあります。どちらの方がマジックが面白いと感じるでしょうか。

それは人によって異なるかもしれないので、どちらと断定することはできませんが、私においては、前者の心がまえで見る方が、はるかに面白いと明言できます。子供のころからマジックに惹き込まれていったのは、そのような気持ちで見ていたからです。

種のことを気にせず、ただ現象だけをボーッと見ていただけでは、マジックほど面白くないものはありません。出現現象の連続のマジックをそのような心理状態のときに見せられると、「ただ隠していた物を出しているんだ」ぐらいにしか感じません。もっとひどい言い方をしていいなら、「どうせ種があるんだ」と感じることもあります。さらにひどい場合は、「いい大人がつまらないことやってるな」と感じることさえあります。

少なくとも観客としての私は、頭がアラート状態にあってマジックを見るときが、いちばん面白いと感じるのです。最近始めた詰め将棋においても同じことが言えます。ある問題に取り組んだとき、疲れたときなどは、あまり考えないですぐ正解を見てしまいます。そのとき正解を見たときの感動と、自分が一生懸命考えてから、答がわからないので正解を見たときの感動はまったく違うのです。

「では、マジシャンは観客の心理状態をどのようにリードしたらよいだろう」ということが、つぎに考えるべき問題点になると思います。しかしながら、そのことについてこれ以上書くことは、”Sphinx Legacy”の主旨からどんどん離れていきますので、ここで打ち止めとしておきます。

(つづく)