“Sphinx Legacy” 編纂記 第86回
加藤英夫
出典:”Sphinx”,1922年7月号 執筆者:A.M. Wilson
発行物というものは、編集者のポリシーを反映させていなければならないと同時に、それが個人の意見としてではなく、発行社(者)としての意見として表明されるべきであるということは、普遍の真実だと思います。
マジックの雑誌というものは、たんにトリックの寄せ集めであったり、秘密やテクニックを普及するもの以上のものでなければなりません。それがマジック界で存在意義がある姿は、”Literaly Digest”が社会の重要な動向を取り上げることによって存在価値があるのと同等であるべきです。したがって”Sphinx”が取り上げるのは、マジック界の動向を広範囲に見渡した情報でなければなりません。
私は編集者として、情報の外観よりも核心にあるものを追求いたします。皮よりも身を求めます。私は私が記述することや、雑誌の内容に関する皆様の忌憚ない批判や意見を歓迎いたします。私は私の意見を述べるとき、考えを包み隠さずに書きます。それは正直な批判や意見を聞いたり採り上げたりすること、そして私の間違いへの指摘を拒むことではありません。
この短い文章の中で、Wilsonはいくつもの重要なことを述べています。まず雑誌の編集者は、自分の意見や考えがその雑誌に反映させるべきであり、それが個人的な主張を超えたものであるべきだ、と指摘しています。
つぎに彼は、マジック雑誌というのは、たんにマジックの寄せ集めではなく、”Literary Digest”という一般雑誌が社会のニュース全般について取り上げているように、マジックの世界全般に起こっていることを取り上げるべきだ、と指摘しています。
そして最後の段落がとても重要な指摘です。彼は外側ではなく内側を、皮ではなく実について書こうとしている、と述べています。すなわち起こっていることの結果だけではなく、そのことが起こったことの原因や経緯まで踏み込んで取り上げる、という姿勢を見せているのです。
この考え方こそが、私が”Sphinx Legacy”をまとめるときに重視していることです。歴史書においては、いつ、どこで、誰が、何をしたか、ということを羅列するものが多いですが、歴史の試験勉強のように、出来事とその年号、名前をいくら記憶したところで、何にも役に立たないのです。それは皮だけを見ているようなものです。
たとえば種明かし問題を起こしたマジシャンがいれば、彼がなぜそのようなことをしたのか、種明かしされたマジックがどのようなものであり、それが一般の人々に知られたらどのような影響が出るのか、それに対してマジック界はどのように反応したのか、そしてそれらのことに対して、その事案だけを紹介するのではなく、関連事項も添えた上で、著者の意見を添えることなどなどが、役立つ歴史書に望まれることだと考えます。
出典:”Sphinx”,1922年7月号 執筆者:A.M. Wilson
A.M. Wilsonが書いたことを賞賛した直後に、彼が書いたことに関する不満を指摘させていただきます。どんな人が正論を書いたとしても、その正論通りには実行することがなかなか難しいものであることがわかります。彼は前述の文章を書いたつぎのページでつぎのように書いています。
おしゃべりマジシャンのAllan Greyは、Paul Valadonが亡くなる3ヶ月まえに撮った写真を送ってくれました。Valadonの隣りには彼の息子と看護婦です。Harold B. Thompsonからも写真を受け取りました。Mr.& Mrs.Eben H. Norrisからは、エジプト旅行のときの”Sphinx”の写真を送ってもらいました。sphinxの前には駱駝に載った夫妻が映っています。Los AngelesのAdam Hull Shirkからは、映画俳優のAlfred Greenがハンカチの結び方を見せている写真が送られてきました。私の写真のコレクションずいぶん増えましたが、まだ余裕がありますので、歓迎いたします。
これはWilsonが指摘する、個人的な主張を超えたものではないような気がします。皮だけ書いたような文章ではないでしょうか。誰それから写真を受け取ったということだけを書いているのです。このニュースを実のあるものにするのは、送られた写真をせめて1枚ずつでも添えることによって、書いたことが生きてくるはずです。
Wilsonにかぎらず、記事や解説を書くときに、大半の読者がよくわかっていないが当人がよくわかっていることについて、簡単な説明で済ませてしまうことがよくあります。そしてこの時代のマジックの解説には、図があまり使われないものがあります。当時は図版を作成するのに手間と費用がかかったのでしかたありませんが、文章だけで道具の構造の説明がされたりしていると、まったく読む気が起きません。
そのようなことを感じるからこそ、私は当書にあることを取り上げるとき、原典には図や写真が添えられていない場合でも、なるべく他のソースから取得して添えることにしています。
文章を書くときは、自分の言いたいことを書くのではなく、相手に伝えたいことを書くべきです。上記の写真の例などは、何を伝えたいのか、伝えたいことがあったのかどうかさえ、疑問に思えます。多くのマジシャンから写真を送ってもらえることを自慢しているようにしか感じられません。
(つづく)