「奇術師のためのルールQ&A集」第88回

IP-Magic WG

Q:ステージから観客席の後方まで、肉眼では見えない糸を張り、この糸を利用していろいろ不思議な現象を行うというアイデアについて、特許を取得できますか?

ステージのホリゾントから観客席の後方まで、インビジブルスレッド(肉眼では見えない糸)を張っておき、このインビジブルスレッドに物品をぶら下げることにより、客席空間を利用した浮遊現象などを行うことを考案しました。このようなアイデアだけで特許を取得できますか?

A:具体的なマジックの演技方法まで考案すれば、特許取得可能です。

ステージの左右を横断するようにインビジブルスレッドを張り、このインビジブルスレッドにシルクを取り付けて、シルクがステージの上でダンスしているように見せる奇術は、ダンシングシルクなどの名称で知られているものと思います。今回ご提案のアイデアは、ステージ上を横断するようにインビジブルスレッドを張るのではなく、ステージと客席後方との間を縦断するようにインビジブルスレッドを張る、というものですね。

特許を取得する大前提として、今までに知られていない新しいアイデアであることが必要です。ステージを横断するように糸を張る方法は前述のように既に知られているアイデアなので、これから出願しても特許取得はできません。これに対して、今回の例は、ステージから客席後方に向かって縦断するように糸を張る方法なので、もし、そのような方法がこれまでに知られていなければ、特許を取得できる可能性はあります。そこで、以下、このように縦断するように糸を張る方法が知られていなかったという前提で、話を進めることにします。

まず、「ステージから観客席の後方まで縦断するように糸を張り、この糸を利用していろいろ不思議な現象を行う」という漠然としたアイデアだけでは、特許を取得することはできません。このようなアイデアだけでは、具体的にどのような奇術を演じることができるのか不明だからです。

実は、特許出願の書類には、「実施可能要件」というものが要求されます。この「実施可能要件」というのは、特許を受けようとする発明の属する分野における通常の知識を有する者(当業者と呼ばれます)がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に発明の説明を詳細に記載しなければならないという要件をいいます。今回のケースの場合、「特許を受けようとする発明の属する分野」とは「奇術分野」ということになるので、当業者とは、一般奇術家(プロマジシャン、アマチュアマジシャン、奇術研究家、奇術用具のディーラーなど)を指すことになります。

したがって、この発明を特許出願する際には、出願書類を読んだ一般奇術家が、この発明を実施できる程度に、出願書類の中に十分な説明がなされていなければならないことになります。このように、「実施可能要件」が要求されるのは、特許法の目的が、発明の保護(他人に無断で使わせないこと)だけではなく、発明の利用(許可があれば他人に使わせること)をめざしているからです。このため、許可を得た者であれば、その発明を実施できるように、詳細な説明が求められるのです。

このような観点で見ると、「ステージから観客席の後方まで縦断するように糸を張り、この糸を利用していろいろ不思議な現象を行う」というだけでは説明が不十分であり、「実施可能要件」を満たしていません。つまり、「いろいろ不思議な現象を行う」というだけでは、具体的にどのような方法でどのような現象を行うかが不明だからです。したがって、特許出願を行うには、実際に行うことができる奇術の具体例(実施例といいます)を少なくとも1つは出願書類に記載しておく必要があります。

実施例は、奇術を演じることができる例であれば、非常に簡単な例でもかまいません。たとえば、シルクを糸に巻き付けるように結び、手を離すと空中に浮いて見える、というような簡単な実施例でもかまいません。そのような実施例でも、とりあえず、シルクの空中浮遊という現象を実現できるわけですから、「実施可能要件」を満たすことになります。

ただ、上例のような簡単な実施例だけだと、「実施可能要件」を満たしたとしても、「進歩性」という特許取得に必要な別な要件を満たさないおそれがあります。「進歩性」というのは、既に知られているアイデアに対して、進歩的な飛躍のあるアイデアである、という要件です。前述のとおり、ステージを横断するように糸を張ってシルクを踊らせるダンシングシルクといった奇術は既に知られているので、「ステージに張った糸にシルクを巻き付けるようにして結び、シルクを浮遊させる」というアイデアは既に存在することになります。

すなわち、「横に張られた糸に結びつけてシルクを浮かせる」というアイデアが既に存在している以上、「縦に張られた糸に結びつけてシルクを浮かせる」というアイデアは、「実施可能要件」を満たしているとしても、「進歩性」を欠いているとして審査により特許が認められない可能性があるわけです。このような点を考慮すると、このアイデアを実際に出願する上では、これまで知られている現象とは異なる「進歩性」のある現象を実施例として記載しておいた方がよいわけです。

たとえば、こんな実施例はどうでしょう。インビジブルスレッドの両端にゴムを取り付けておき、インビジブルスレッドのステージ側の一端をゴムを介して固定し、同様に、観客席後方側の一端もゴムを介して固定しておきます。そして、このインビジブルスレッドにシルクを巻き付けるようにして結び、両手を離してシルクが空中に浮いたことを示します。更に続けて、演技者はホリゾント側へと後退してから、密かにインビジブルスレッドを両手で手繰り寄せるようにすると、空中に浮いているシルクは演技者側へと移動してきます。逆に、インビジブルスレッドを客席側に手繰るようにすれば、空中に浮いているシルクは客席側へと移動してきます。

要するに、このゴムを使った実施例によれば、これまでは左右に移動するしかなかったダンシングシルクを、前後に移動させることができるようになります。別言すれば、この実施例によれば、これまで知られているダンシングシルクの横方向の動きを縦方向に変えることができ、これまで知られていない新たな現象を生みだすことができるわけです。しかも、インビジブルスレッドの両端にゴムを取り付けるという新しい構造も付加されているので、従来のダンシングシルクの方法に比べて、十分な「進歩性」を主張することができます。

もちろん、ゴムの伸び縮みには限度があるため、シルクの移動距離としては数10cm程度が限度ですから、演技としては地味なものになるかもしれません。ただ、特許出願に要求される「実施可能要件」というのは、奇術の現象が派手だろうが地味だろうが無関係です。要するに、奇術家がその奇術を実施できるような内容が記載されていれば十分です。実際にステージにかけるためには、もう一段踏み込んだ工夫が必要になるかもしれませんが、特許出願をする上では、見栄えのよい演技を行うことまでは要求されないのです。

もうひとつ別な実施例を挙げておきましょう。演技者は観客の中から1名を指名してステージに登壇してもらいます。そして、数枚のパケットの中から1枚のカードを選んで覚えてもらいます。続いて、このパケットのカードをシャフルして裏向きのまま1枚ずつ横に並べてボードに固定し、このボードをホリゾントに固定します。観客席からは、横に並んで固定された裏向きの数枚のカード(うち1枚は客が覚えたカード)がボードに貼り付けられた状態が見えています。

続いて、演技者は、先端に針がついた紙飛行機を手に持ち、観客席に降りてゆきます。そして、観客席後方に立ち、紙飛行機をステージの方に向かって飛ばします。紙飛行機は、観客席の頭上をステージへと飛んでゆき、ボードに固定された1枚のカードに突き刺さります。紙飛行機が突き刺さったカードをボードから取り外して表を見ると、正に客が覚えたカードです。

こんな現象を行うには、ボードと観客席後方との間にインビジブルスレッドを張っておく必要があります。そして、客の覚えたカードは、インビジブルスレッドのボード側の固定端の下方位置に固定する必要があります。また、紙飛行機の上方には、筒を固定しておき、この筒の中にインビジブルスレッドを通しておきます。一方、インビジブルスレッドの観客席後方端は、助手などに持たせておき、紙飛行機を飛ばすまでは、インビジブルスレッドはだらりと垂れ下がるようにしておき、紙飛行機を飛ばす際にピンと張るようにします。そうすれば、演技者が紙飛行機を投げると、筒がインビジブルスレッドをスライドしてゆき、紙飛行機はボード上の客のカードまで到達する、というわけです。

この紙飛行機を使った実施例のような奇術は、おそらくこれまでに知られていないでしょう。インビジブルスレッドを使うという点では、従来のダンシングシルクなどの奇術と同じ原理を用いていますが、筒のついた紙飛行機とカードを固定するボードという新たな構成要素を付加することにより、これまで知られていない新たな現象を生みだすことができたわけです。よって、従来のダンシングシルクの方法に比べて、十分な「進歩性」を主張することができます。

以上、いくつかの具体的な実施例を紹介しましたが、要するに、「ステージから観客席の後方まで縦に張った糸を利用して、いろいろ不思議な現象を行う」というだけでは、特許出願に要求される「実施可能要件」を満たしていないため、出願書類には、具体的な実施例を記載しておく必要があるわけです。しかも、その実施例は、「進歩性」を主張することができるように、これまでに知られていない新たな現象を実現する実施例になっていた方が好ましい、ということになります。なお、以上述べたことは、特許だけでなく、実用新案についても同様です。

(回答者:志村浩 2022年9月3日)

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