第8回「天海のセンタースティールと解説の問題」

石田隆信

デック中央の客のカードを左手にスティールする技法です。1938年のHilliard著「グレーターマジック」の本で天海の方法として発表されました。”Palming One Card, Tenkai ’s Method”のタイトルとなっています。残念ながら、ここでの解説にはいろいろと問題がありました。1974年の”The Magic of ”まで正しい方法が解説されていません。

この技法に関しては、1994年の「グレーターマジック」の後部で、リチャード・カウフマン氏が追加された「モア・グレーターマジック」の中で、修正された方法が紹介されていました。また、2015年には加藤英夫氏が、「天海奇術講座」の第13回で「解説の間違い」として報告されていました。これは「マジック三部作」DVDとして発行され、その中に「天海奇術講座」が含まれています。今回は、この間違いの内容だけでなく、その原因の可能性や、この技法に関わる数名のマジシャンについても報告します。

天海の方法の特徴は、右親指を巧妙に使っている点です。ところが「グレーターマジック」では、この最も重要な親指の操作のことが抜け落ちた解説になっていました。さらにイラストでは、解説になかった右小指を使った方法で描かれ、全く別物のようになっていました。

グレーターマジックの解説では、右手で上半分を持ち上げる時に、内エンドにある右親指を少し下へ出しておくことが書かれています。そうであるのに、上半分を左手のカードの上へ戻す時には、右親指の操作のことが書かれていません。上半分を戻しながら客のカードを少しだけ右へ動かし、その右外コーナーに左小指を当てると書かれているだけでした。右親指は何もしていないような解説になっていました。そして、イラストではこの操作に関わらないはずの右手の小指が、客のカードの右外コーナー近くに当てた状態になっていました。これでは、右小指により客のカードを右側へ押し出している間違った解釈をさせてしまいます。

「グレーターマジック」の著者のHilliardが1935年3月に亡くなった後、彼の原稿を元にしてヒューガードが編集し、ターベルがイラストを描いています。この段階で大きく違ったものになったようです。天海とヒューガードとは会った記録がなく、ターベルとは1933年以降は1938年まで会っていません。つまり、二人とも天海のこの技法を見たことがなく、Hilliardの原稿から推理して間違ったイラストを描いたことになります。

使わないはずの右小指を使うイラストになった原因はヒューガードにあると言えます。右小指の使用は Braueのノートを参考にされた可能性が考えられます。1985年に”The Fred Braue Notebooks”が発行されますが、そのVol.2に天海の方法の改案が「サイドスティール(After Tenkai)」のタイトルで解説されていました。その記録をしたのが1937年10月12日となっています。西海岸のCharlie Kohrsより天海の方法を見せてもらいますが、方法は教わっていません。そのために、少し変えた方法でノートしたそうです。外エンドからピークさせたカードを左小指で外側へ少し突き出させ、その突き出た右外コーナーを右小指で下方へ押しています。つまり、右親指を使わずに、右小指を使った方法になっていました。

東海岸のヒューガードと西海岸のBraueは、1937年から手紙による交流をされていたようです。1938年から発行のヒューガード著「モア・カードマニピュレーション」のシリーズ1にBraueの原稿が採用され始め、その後は共著で数冊の本が発行される関係となります。グレーターマジックの発行は1938年ですが、マジックの雑誌での広告掲載が始まるのは10月からですのでかなり後です。1937年10月にBraueが書いていた天海の技法のことが、ヒューガードを通してグレーターマジックのイラストに影響を与えていた可能性が十分に考えられます。

彼らに比べて、米国で最も長期にわたり天海氏と親交のあったアマチュアマジシャンがジェラルド・コスキー氏です。1974年の”The Magic of Tenkai ”の本では、最初に解説されていたのがこのセンタースティールです。正しい方法で解説されたのはジェラルド・コスキー氏で、イラストは二川滋夫氏が描かれていました。グレーターマジックの間違いについては書かれませんでしたが、最も気にされていた技法であったと思います。

その解説では、左手にデックを持ち、右手で上半分を持ち上げ、下半分のトップカードを客に取らせています。それを覚えさせて戻してもらい、その上へ右手の上半分を置くのですが、少し前方へずらした状態にしています。その上半分を手前へ引いて全体をそろえる時に、内エンドにある右親指を下半分のトップの客のカードに当てて力を加えます。客のカードの左内コーナーが左親指の基部に当たっているので、そこを支点にしてカードが時計方向へ少し回転します。右外コーナーが右側へ突き出ることになり、この部分に左小指を当てています。デックの左サイドの外端付近を右手の親指と他の指ではさんで引き出すと、左手に客のカードがパームされた状態になります。

なお、このイラストを見ますと、ブリッジサイズのカードであることがはっきりと描かれていました。バーノンやル・ポールの本ではポーカーサイズが使われていますが、天海はブリッジサイズを使われていた可能性が高そうです。日本では1970年代中頃までブリッジサイズが普通でしたが、アメリカでも昔はブリッジサイズを使うマジシャンが多かったかもしれません。

結局は右親指の力の加え方が難しく、かなりの練習が必要となります。問題は体質や年齢で親指が滑りやすくなっていることです。天海氏やフロタ氏は、指を口で湿らせていたとの話を聞いたことがあります。1960年代中頃までは、指を口で湿らせるのは普通の行為であったように記憶しています。現代ではマジック用の特別なハンドクリームや溶液が使用され、海外でも多くのマジシャンが独自のものを使われているようです。

日本では1984年のThe New Magic Vol.23 No.4の「天海の表返るカード」で、フロタ・マサトシ氏がスティールする方法を解説されています。フロタ氏はこの技法をかなり練習され、ほとんど完璧にマスターされたそうです。1979年にラスベガスを訪れた時に、ジミー・グリッポもこの技法を使われていたことが分かったそうです。

1996年のThe New Magic Vol.34 No.1にもこの技法の解説があり、グリッポとのことが再度書かれていました。フロタ氏がこの技法を見せたところ、一度に態度が変わり、驚くほどのサービスで多くのマジックを見せてもらえただけでなく、食事代も負担してもらったそうです。天海の生徒であることを認めてもらえたからのようです。グリッポはワンハンドパームが得意で、その他のパームやスティールもかなり習得されていたと思います。

New Magicの「天海の表返るカード」ですが、天海氏が好んで人に見せていたと報告されています。右手で抜き取ったデックを表向けて両手の間で広げ、左手の裏向きのパームカードを広げた中央あたりに差し込みつつそろえて、デックを裏向けていました。なお、この解説でのデックの表返し方が新しくなっていました。元の方法では、左サイドの外端近くで右親指を上側に当てて引き抜いています。新しい方法では、右サイドの外端部で右親指をカードの表側(下側)に当てて、手のひらが上向くようにひっくり返しています。右手の持つ位置や持ち方を変えられた理由を考えるのも面白いかもしれません。なお、天海氏は左利きのために、解説ではカードを持つ手が左右逆になっていました。

この技法とマジックで思い出されるのが、1949年発行の”The Card Magic of Le Paul”の本です。1885年のSachsの方法のように、スティールするカードの右外コーナーを右サイドへ突き出して左手にパームする方法が解説されています。そして、デックの抜き出し方が天海に近い方法です。この技法解説の後の”A Useful Acquitment”では、両手の間で広げたカードの中央へ、パームしたカードを差し込む現象が紹介されていました。ル・ポールは1920年からのプロマジシャンですが、戦前での天海との関係の報告は見つかっていません。しかし、1950年代には会われる機会があったかもしれません。

この技法のことで驚いたことがあります。1957年のマルロー著「サイドスティール」の冊子ですが、天海氏と同様な方法が天海のクレジットなく発表されていました。左手サイドスティールとして右親指を使った方法で解説されているのですが、そのほとんどが天海の方法と同じです。違いは最初の部分で、デックのエンドからピークにより覚えさせている点と、最後の右手でデックを抜き取る時の右手の持ち方の違いがある程度です。

天海とマルローが初めて会ったのが1953年のシカゴで、6月と12月の2回会っていたことが天海メモに記載されています。マルローは技法に対する興味が高いことから、グレーターマジックの天海のセンタースティールを見せてもらっていたと考えられます。そうであるのに天海をクレジットしていない点が不可解です。

最後に天海氏がこの技法を考案するきっかけになったことについて考えてみました。左手にスティールする技法で最も有名なのが、1902年発行のアードネス著”Expert at The Card Table”の「ダイアゴナルパームシフト」です。この本の研究で有名なのはバーノンですが、この技法やサイドスティールに関してはDr Daleyが特に研究されていたようです。1940年発行の「エキスパート・カード・テクニック」の第3版が1950年に発行された時に、Dr Daleyの数種類の方法が加筆されていました。

Dr Daleyと天海が交流されていたのが1934年頃のニューヨークです。天海の「奇術五十年」の後方の「忘れ得ぬ人びと」の中で、カップ・アンド・ボールを見せてもらったり、彼が考案した「糸を切ってつなぐ奇術」を詳しく教わっていたことが報告されています。そのことから、Dr Daleyのサイドスティールの方法や、天海の方法に近い1885年のSachs著”Sleight of Hand”の方法も見せてもらっていた可能性が大いにありそうです。それらの影響を受けて、1934年には天海独自の方法を考案された可能性が考えられます。「グレーターマジック」の著者のHilliardはニューヨーク住まいで、1935年3月に亡くなっています。つまり、それまでに天海の方法を教わり、原稿として残されたと考えられます。

(2021年6月1日)

参考文献&DVD

1885 Sachs Sleight of Hand The Diagonal Pass
1902 S.W.Erdnase Expert at The Card Table The Diagonal Palm Shift
1938 John Northern Hilliard Greater Magic Palming One Card, Tenkai ’s Method
1949 Paul LePaul The Card Magic of LePaul The Diagonal Left Hand Palm
1950 Hugard & Braue Expert Card Technique 第3版 Dr Daley’s Left Hand Side Steal
1957 Edward Marlo Side Steal Left Hand Side Steal
1974 Gerald Kosky & Arnold Furst The Magic of Tenkai Center Steal
1984 フロタ・マサトシ The New Magic Vol.23 No.4 天海の表返るカード
1985 Fred Braue The Fred Braue Notebooks Vol.2 Sidesteal(After Tenkai)
1994 Richard Kaufman More Greater Magic P.1143 ’s Method 
2015 加藤英夫 マジック三部作DVD 天海奇術講座第13回 解説の間違い