“Sphinx Legacy” 編纂記 第55回
加藤英夫
今回は、’種明かし問題’に関する、A.M. Wilsonの意見を取り上げました。
出典:”Sphinx” 1926年5月 執筆者:A.M. Wilson
I wonder how many of us have ever tried to analyze the words, expose, exposing, exposure? When we do an entirely new light will be thrown on the subject. It will then be less a “bugaboo,” a “bogey man,” and we will cease to fight a “windmill” like Sancho Panza. Integral honor in the individual is the real remedy, not law, ridicule, ostracism or publicity; none of these will avail. Harry Leats’ promise and threat will prove as futile as trying to kill an elephant with a pea shooter.
There are three classes of exposers. The bungler or incompetent, the mercenary and the malicious, whose delight is that of destroyer. The latter is the most despicable. If he was a Mason he would violate his oaths; if a physician or a lawyer, he would reveal the secrets of his patients or clients. His spittle would be an insult to dung if it fell on it.
Why does not some one analyze exposing? Tell us exactly what are its component parts, its vital constituents? What are its effects on the professional, on the amateur, on the public? What effect does it have on the attendance at magical shows, professional or amateur? To what extent does it lessen interest in magic among regular patrons of the theatre? Get down to facts, quit generalizing. Summarize the actual and punitive damages accruing from exposing. The columns of The Sphinx are open for the testimony of magicians who have suffered financially by loss of contracts, or lessened salary by professionals or lower pay by amateurs or club and social performers, in fact have had practical evidence that exposing has hurt them in any way. Come on now, let us hear from you.
マジックの種明かしは、マジシャンの迷惑になるからよくないとか、人々にマジックへの興味を喚起するのに役立つからよい、という単純な理由で善し悪しを述べるのではなく、種明かしというものをもっと理論的に分析する必要がある、という提言です。
おそらくWilsonは、種明かしすることが役に立つマジックや役に立つ場合もあり、種明かしすることが害となるマジックや害となる場合もあり、それらのことを整理した方がよい、というようなことを提言しているように私には感じられます。
じつはここまで様々な種明かし問題に関する記事を読んできて、私もそのようなことが整理されていないと思っていました。色々なケースを分析して区分けすることによって、明確な境界線は引けなくとも、害と益の両極端にあるものはリストアップできるに違いありません。
私自身がそのようなことにトライしてみようかとも思いましたが、種明かし問題について個人的な意見を公表すると、このネット時代にはたいへんな危険が存在しています。どんな意見にも必ず反論が登場するのです。お互いに意見を闘わせて、お互いに向上しようというのならよいのですが、たんに相手を攻撃することの快感だけを得ようとする人々が、ネット社会には存在します。
日本奇術協会が制定した、’インターネットを利用した動画によるタネ明かしのガイドライン’は、ひとつの組織内でのルールですから、組織外の人が反論するようなものではありません。種明かし問題に関するひとつのモデルとして、よい方向に影響が伝播することを期待しています。
出典:”Sphinx”,1927年4月号 執筆者:A.M. Wilson
There are only two classes of exposers, the one on the stage the other on the pages of the public press, which is the greater and most pernicious? The average reader of a newspaper buys and reads it for some particular feature in which he it; interested and just skims over all the balance, he may give a transient glance at any magic therein and passes it up, but if he sees a trick exposed on the stage he never forgets it and to him magic is a farce from then on.
Wilsonは種明かし問題のタイプを、たいへん大まかに2種類に分けています。ステージにおける種明かしと、一般の人々に対する印刷物によるものとにです。ステージにおけるものというのは、今日ではテレビによるものも含まれると思います。すなわち、映像(visual media)的なものと、文章(text media)的なものとに大別しているのです。
そしてWilsonはどちらの方が悪影響があるかを指摘しています。文章によるものなら、読む人が興味があれば読み、興味がなければ読まないのに対して、ステージにおける種明かしは、すべての人が見てしまうので、悪影響の度合いが強いと述べています。たしかにそうですね。客席に座っていれば、否応なしに種明かしを見たり聞いたりしてさせられてしまいます。
この観点から種明かし問題が語られているのを読んだのは初めてでした。はてさて、いままでマジックに興味はなかったが、その種明かしの説明を見たり聞いたりして、興味を持つ人がいるとしたら、はたしてそれは悪影響でしょうか。Wilsonはそのことは考えなかったのでしょうか。
私はごく最近、将棋に興味を持ち始めました。藤井聡太さんが脚光を浴びたことがきっかけです。そこで私はAbema TVの将棋番組を見てみました。解説していることのほとんどは理解できませんが、ときどきわかることもあり、わかったときには「へぇーそうなんだ、なるほどね」と感嘆することがありました。そこで私はネットで詰め将棋のサイトにアクセスし、3手詰めから始めて、7手詰めまでぐらいのやさしい問題は解けるようになりました。
以上のことをマジックに置き換えてみましょう。たとえばテレビですごいマジシャンを見てマジックに興味を惹かれたとしましょう。これは藤井聡太さんの活躍を見て、将棋に興味を惹かれたことに相当します。
そこであるマジックの会に参加することにしました。これはAbema TVを見ることに相当します。そこで将棋の色々なノウハウを説明するのは、マジックの種明かしに似ています。将棋の手法、戦法のようなものを聞いて感心するのは、マジックの種明かしを聞いて感心することに相当します。かくしてマジックの種というものに興味を持った人は、たまたまネットで見たマジック道具の広告を見て、買うことにしました。それは私が詰め将棋のサイトにアクセスして、将棋入門の扉を開いたことに相当します。
そこで問題の分岐点が明確になってきます。マジックの種明かしというものに良い影響力があるとしたら、種明かししたときに人をがっかりさせるのではなく、面白いと思わせ、できるなら感動させるやり方をした方がよいということです。それが正しいとしたら、ただそう思うだけではなく、どのような種明かしの仕方が、もっとも効果的であるか考えなくてはなりません。
種明かしが何でもかんでも悪いことだと述べるのは、まるで盲信者が叫んでいるようなものです。東京オリンピックを何としてもやろうとか、中止すべきだと結論を先にいうのではなく、バイデン大統領のように、科学的に考えて判断するというのが、現代人が過去の歴史からの英知を生かすことに、望ましいやり方だと思います。
過去に行われてきたことを学ぶということ、すなわち歴史を学ぶということも、じつは科学的な手法のひとつであります。色々なことが行われてきて、その影響がどうなったかを知ることができるからです。自分一人の考えと経験だけで考えるよりも、はるかに幅広い考え方ができるようになるのです。
それが”Sphinx”が私たちに与えてくれる遺産であり、それを皆様に渡すのが、当書の役目だと思っています。
(つづく)