“Sphinx Legacy” 編纂記 第69回
加藤英夫
出典:”Sphinx”,1909年8月 執筆者:A.M. Wilson
Henry CliveはアシスタントのMai Walkerとともに、Washington州SpokaneのOrpheum Theaterで、彼のウィット溢れるしゃべりとバーレスクなマジックで、観客を沸かせました。彼は’Card Palming’と’Sliding Die Boxをやりました。
この報告記事のHenry Cliveという名前に見覚えがあって調べましたが、すぐ私が知っていたのはPaul Cliveであるとわかりました。間違えたおかげで、他のマジシャンとはかなり異なる、波瀾万丈の生涯を送ったマジシャンを知ることができました。”Magicpedia”にはつぎのように紹介されています。
Henry Clive (1882-1960)は、オーストラリアに生まれたマジシャンであり、絵描きであり、イラストレーターでありました。彼は’Clive the Illusionist’とか’Debonair Magician’という芸名で、マジシャンとして世界を巡りました。彼は一時期、ヴォードビルでもっとも美しい女性と言われた、May Sturgessをアシスタントに使っていました。
Cliveはアメリカの一流の劇場に出演してきました。彼の得意芸は’Die Box’と’Spirit Painting’であり、後者についてはおそらくアメリカで最初に演じたマジシャンでした。彼のアクトは、Max Holdenの’Programmes of Famous Magicians’に掲載されています。
彼は1911年ごろにステージから離れ、そしてイラストレーターとして華々しいキャリアを紡ぐことになります。彼は1929年にHollywoodに移り、映画のポスターのデザイナーとしても名を馳せました。さらには雑誌の表紙の絵でも有名になりました。
Charlie Chaplinの’街の灯'(City Life)という映画において、アートディレクターを務め、配役にも名を連ねました。Thayerのマジックカタログのイラストも多く手がけました。Fred KeatingはPaul Cliveのマジックを称賛し、多くの影響を受けたと語っています。
Fred Keatingという一世を風靡するマジシャンが、Henry Cliveのスタイルを真似したということですから、さぞかしHenry Cliveもマジシャンとして名を馳せたかと思いましたが、それほどでもないことには明確に理由があります。Henry Cliveは”pulpartist.com”によると、1903年8月17日にサンフランシスコに到着し、その月にはシカゴのOpera Houseに出演しています。
そして上記の”Sphinx”の記事が出たときはまだマジシャンとして仕事をしていましたが、1911年の8月にはロンドンに渡り、俳優としての仕事を始め、それから彼は一時期俳優としてかなり成功し、1919年には女性誌の表紙の絵を描いたと、”pulpartist.com”に記されています。その後、彼は女性を描くイラストレーターとして大成功することになります。
彼はアメリカにおいて、マジシャンであった期間が8年ぐらいしかなかったようで、マジック界ではそれほど有名ではないのでしょう。しかしながら彼の人生は、俳優と女性専門イラストレーターという環境において、女性遍歴では目を見張るような経歴を辿ります。
Henry Cliveは生涯で5人の女性と結婚します。それだけ離婚もしたということです。それぞれの女性と結婚したときの、女性の生まれた年を見て見ると、Cliveの”老いて盛ん”のすごさが見られます。1人目から5人目までの生まれた年を順に並べると、つぎのようになります。
1888年、1894年、1900年、1908年、1921年。すなわち、自分は歳をとっていくのに、結婚相手はどんどん若い女性となっているのです。年齢差にすると、6歳、14歳、18歳、22歳、39歳となります。
このようなことをいくら当書に収録しても、何もマジックの研究には役立ちません。このような特異な経歴のマジシャンがいたということを書きとどめるだけにしておきましょう。彼の壮絶な経歴を読みたい方は、以下にアクセスしてください。
https://www.pulpartists.com/Clive.html
(つづく)