“Sphinx Legacy” 編纂記 第52回

加藤英夫

今回は、”Sphinx”や”Billboard”を読んでいて、私自身の経験を思い出したことを書かせていただきます。歴史研究とはあまり関係ありませんが、たまには息抜きとしてお許しください。

Cecil Lyleの名前を見て、私の父を思い出した

“Billboard”でCecil Lyleというマジシャンの名前を見て、ネットで検索したら、このポスターに目が止まりました。アメリカのマジック史とは関係ない話で失礼します。むしろ私のマジック史の一コマです。

このポスターに描かれている時計のマジックを、(株)テンヨーで発売していたことがあります。時計の針の中央部分に可動式の重りが仕込まれていて、それをずらすことによって重い部分が移動し、針をまわたしたときに、目的の時間を指すようになっているという仕掛けのマジックです。

この時計の針を(株)テンヨーのために製作したのが私の父、加藤安夫でした。父はプレス関係の仕事をしていて、金属加工の技術を持っていました。父はこの時計の針を含めて、テンヨーの3種類のマジック製造に関わりました。

ダイ・バーノンがすごいと言ってくれたのは、’消える鳥籠’でした。よく売られているものは、針金で作ったような弱々しいものが多いのですが、父の作ったのは針金ではなく平板が使われていて、見た目もしっかりしたもので、たたまれるのもスムーズでした。この鳥籠はチャーリー・ミラーが来日したときも、彼がたいへん気に入り、どうしても欲しいと言われて、私が持っていた物をあげてしまいました。テンヨーにもひとつも残っておらず、いまとなっては貴重なものをあげてしまったことを悔やんでいます。

そしてもうひとつは、これは最初から父が作ったものではなく、いままで他の会社に作らせてきた’ダイナミックコイン’の品質が低下してきたので、私の父の会社にも作らせることになったのです。これは父の会社にとっても、かなり重要な仕事になりました。なにせ私が担当していた有名テーマパークのマジックショップだけでも、年間3万個ぐらいは売っていましたから。

私の父の話を書くのは初めてです。このような話をする機会はいままでありませんでした。ダイ・バーノンやチャーリー・ミラーに父の仕事を褒められたのですから、アメリカのマジック史の片隅に記録したことを、少し無理はありますが、お許しください。

出典:”Sphinx”,1928年4月号 執筆者:Max Holden

これまで読んだ記事の中には、マジックのアクトの間にピアノ演奏があったり、歌が歌われるというものがいくつもありましたが、歌いながらマジックを演ずるというマジシャンについて読んだのは、このFred Culpittが初めてでした。

Letter from Fred Culpitt the Magical Comedian from England, and Fred rightly complains about the unblushing theft of his magical effects and illusion. The Bathing Beauty effect and the “Doll House Illusion belong to Fred and both were registered through the N. V. A. when Fred last appeared here in vaudeville. Fred has started legal claim and intends coming across to protect his properties.

Fred, besides being a magician, is also a comedian and has just finished a run of pantomime in which he was back in his old part of “Abanazar” in “Aladdin.” During the show Fred sings and at the same time performs tricks. Also in the show he works his “Vanish through a Keyhole” illusion also Telephone Box illusion, Doll House Illusion and many magical effects.

じつは私自身も’歌う手品師’というのをめざした時期がありました。歌を勉強するために、浜口庫之助氏の主催されていた代官山のミュージックスクールに通いました。同期生にビリー・バンバンがいて、少しあとに辺見マリが同期生となりました。

葉山マリーナでの合宿のときに、浜口先生と二人だけで同室となり、色々と話を聞かせてもらいました。そのころはフランク永井でヒットした、’公園の手品師’に合わせてマジックをやるだけでしたが、浜口先生から「歌いながらマジックをやるなら、オリジナル曲を作った方がよい」と言われて、スクールの作曲部門も受講するようになりました。

歌いながらマジックをやったのは、テンヨーのマジックフェスティバル、ミュージックスクールの発表会、武蔵工大と千葉大のマジッククラブの合同発表会、そしてテレビ東京の’ヤングセブンツーオー’というテレビ番組でやらせてもらったこともあります。その番組で初めてビリー・バンバンが歌ったのが、紅白にも出演するきっかけになった、’白いブランコ’でした。私の歌ったのは’素敵なハンカチーフ’という、「素敵な絹のハンカチは、色々役にたつのさ、、、」と歌いながら、シルクで色々なアクションをやるものでした。

ステージマジシャンを目指していたそのころ、まだ夢見る青年でありました。そのままプロマジシャンになっていたら、どうにもならない人生になっていたことでしょう。それを止めてくれた山田昭氏は、その後テンヨーを立派に育てられ、私も一員としてマジックの世界で充実した人生を送らせてもらうことができました。山田氏夫妻とともに各国のFISMに参加した日々をなつかしむこともあったり、厳しく叱咤激励されたことを思い出しては気を引き締めたりしています。

話が脱線し過ぎました。Culpittが歌いながらどのようなマジックを演じていたか知りたいものですが、いくら何でもそのような見つからないでしょう。そう思って検索すると、歌を歌っていたことは見つかりませんでしたが、Max Hildenが書いていた、演劇に出演していたときのことは、演劇関係の”The London Stage 1920-1929:A Calendar of Productions,Performers,and Personnel”という資料に、出演者として名前が出ていました。

これによると、この演劇が公演されたのはLondonのPalladium劇場で、1926年12月22日~1927年12月2日までの1年間にわたる長期公演でした。

(つづく)