“Sphinx Legacy” 編纂記 第74回

加藤英夫

出典:”Sphinx”,1910年6月号 執筆者:A.M. Wilson

時々A.M. Wilsonは、’Editor’s Page’というページで、マジック以外の分野から蘊蓄のようなもので、マジックに応用できるものを引用することがあります。

“Story of the Other Wise Man”の中で著者のヴァン・ダイクは、一人の登場人物につぎの言葉を言わせています。「最悪者に従うよりも、最善者の陰を追うべきである」。

この言葉からは深く学ぶことができます。成功の階段の頂上に到達するには、彼より先に到達したものの後を登る必要があるということ。そしてまた、彼が登った階段に印された陰が、あとに続く者の道標となるべきであること。

Van Dykeのこの本は、日本語では”もうひとりの博士”という題に訳されたこともありました。’博士’よりも’賢者’とした方が原題に忠実であると思います。”アルタバン物語”と題したものも出版されました。

‘陰を追う’ということを、ただ’真似をする’という単純なとらえ方ではなく、成功した先人の行ったことが世間でどのようにして受けいれられたのか、その真相を知り、それを自分のマジックのあり方に適用することによって、マジシャンも成功の道を進めるのではないかと考えました。

歴史を学ぶことは、たんに知るためのものではなく、そこから得られものを利用するということです。ですから、”The Other Wise Man”の登場人物の言った一言は、いみじくも当書編纂の意図を代弁してくれているのです。

参考までに”plala.or.jp”サイトから、”The Other Wise Man”がどのような物語か確認しておきましょう。

新約聖書のマタイの福音書2章には、「東方の博士たちがイエス様の誕生を祝い、 『黄金・乳香・没薬(モツヤク)』を贈り物としてささげた」と記されています。 『三人の博士たち』と言われていますが、本当は聖書に『三人の博士たち』とは記されていません。でも、「『黄金・乳香・没薬(モツヤク)』を贈り物としてささげた」と聖書には記されてありますので、 三人だったのでしょうね。

ところでヘンリ・フォン・ダイクの「もうひとりの博士」という物語では、アルタバンという博士も、 聖書に登場する博士と一緒に、イエス様の誕生をお祝に行くこととなっていました。しかし、彼は待ち合わせの場所へ行く途中で、人助けをしていたため、待ち合わせの時間に遅れてしまい、 アルタバン一人で行くこととなりました。

『サファイア・ルビー・真珠』を贈り物として用意していましたが、『サファイア』はらくだを買ったりし、 『ルビー』は、旅の途中で赤ちゃんを殺そうとするローマ兵に渡してしまい、イエス様のプレゼントが 『真珠』だけとなってしまいましたが、イエス様にささげるために『真珠』を大切にして エルサレムへ向かって行きました。そして、故郷を旅立ってから、33年の年月が過ぎて、アルタバンは年老いていましたが、 ゴルゴタの丘へ登って行かれるお方が、救い主のイエス様と知り、アルタバンも必死に丘を登って行きました。

すると一人の少女が奴隷に売られていく所に遭遇したため、 アルタバンは、イエス様にささげるために大切に持っていた『真珠』を売人に渡して、少女を救いました。やがて、アルタバンの息が絶える時、「わたしの兄弟であるこの小さな少女にしたのは、わたしにしてくれたことなのです。」というイエス様の声を耳にしました。

ヘンリ・フォン・ダイクの書いたこの物語からは、自分の思いどうりではない時、自分では理解できない時でも、 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(旧約聖書:伝道者の書3章11節)ということを、 学ぶことが出来ますね。

人に物を分け与えるということが、美しい行為であるいうことではありますが、受け取った人が受け取ったものを、生かして使うこともまた、美しい行為であるということになると思います。

私たちは過去のマジシャンたちから、大いなる遺産を受け継いでいます。それらをただ自分のものとするだけでなく、他のマジシャン、未来のマジシャンたちに手渡していこうではありませんか。

(つづく)