“Sphinx Legacy” 編纂記 第92回

加藤英夫

出典:”Sphinx”,1932年12月号 執筆者:John Mulholland

“Sphinx”は毎号、新しく発行された書籍や雑誌の書評を掲載します。これはS.H. Sharpの”Neo Magic”という理論書の書評です。

S.H.Sharpeの新刊書”Neo Magic”は、私に利益と喜びをもたらしました。しかしながら私は彼の述べたいくつかの点について、明確に反論いたします。彼はつぎのように述べました。

マジックにおけるアート(技術)というのは、マジックを構築することであり、ショーマンシップとは、それを観客に売り込む技術です。

私は、ショーマンシップを含まないで構築されたマジックはアートとは言えないと思います。そしてショーマンシップというものは、マジックを売るということとはまったく別のものであると思います。

ショーマンというものは、観客が喜ぶことをやって見せる人です。確かにマジックを構築することを洋服を作ることに例え、マジックのアクトを売ることを洋服を売ることに例えることはできるでしょう。であるとすると、ショーマンシップとは、洋服を正しく着ることに例えることができます。ある人は高い洋服を着ても安物を着ているように見え、ある人は安物を着ても高価な物を着ているように見えることがあります。その違いを生むのがショーマンシップです。

Sharp氏はさらにセリフというものが、トリックに対して命を与え、面白さを与えるものであると述べています。私はセリフだけでなく、パントマイムでもそのようなことができると思います。パントマイムの方が難しいですが、パントマイムで表現できるのなら、セリフは必要のないものです。

このように部分的に抜粋して書評するやり方は、たいへん誤解を招きやすいと思います。Mulhollandが指摘している文章のあとに、Sharpがどのようなことを書いているか、”Neo Magic”から抜粋いたします。

マジックにおけるアート(技術)というのは、マジックを構築することであり、ショーマンシップとは、それを観客に売り込む技術です。これらはお互いに相反する作用を生じ得るものであるということは否定できません。

セールスマンというものは、まず客が喜ぶ物を用意することが根本です。それがベーコンの薄切りであろうと、劇場のチケットであろうともです。そして客がそれらを得たいという気持ちをより強く持たせることに成功すれば、彼の収入が増えることになるのです。すなわちセールスマンが最終的に求めているのは、あなたが持っている金に他なりません。

アーティストはそれに加えて、フィーリングというものを表現する必要があります。それは金銭を得ようという気持ちからは生まれません。誰でも金銭を多く得たいのは当たり前ですが、真のアーティストというものは、金銭や拍手さえも得るために演技するのではありません。彼は表現することをどのような態度で表現するかを考えます。その態度いかんでは、客は金銭も拍手も与えようとしなくなります。

ショーマンとして手慣れた人なら、彼は観客の好みに迎合した態度で演じるかもしれません。しかしながらそのように大衆受けばかりを追求するショーマンは、けして高い評価を得ることはできません。それは彼自身が彼のアートの基準を下げてしまっているからです。彼はアートの基準を下げることなく、それでも演ずることがしっかり受け止められるように演技すべきです。もっとも人気のあるマジシャンが、もっとも優れたアーティストだと評価することはたいていの場合、間違っています。

可能な限り、ショーマンシップにアクトそのものを邪魔させてはなりません。アートというものは描かれた絵画と同じです。その絵描きが画商にその絵を渡したあとは、画商がどのような額縁に入れて、どのように宣伝して売るかは、彼は決められません。画商は絵を改ざんすること以外は、どのような手段でその絵を売るかは自由なのです。しかしながらその画商が売ろうとする戦略に影響されて、絵の一部を改ざんするようなことがあったとしたら、そのアートは破壊されたも同然です。

Mulhollandは、Sharpが”マジックにおけるアート(技術)というのは、マジックを構築することであり、ショーマンシップとは、それを観客に売り込む技術である”(The art of conjuring is the art of making magic; showmanship the art of selling it)と書いている部分だけを抜き出して、それらは別々にあるものではなく、マジックを構築するということは、ショーマンシップも含めることだと指摘しています。

どちらも間違ってはいないと思います。結果としてマジシャンはどちらの作業も適切にやらなくてはならないのです。しかしながら私は、Sharpのように両者を区分けして考える方が望ましいのではないかと考えます。不思議にする作業とショーマンシップで面白くする作業を同時にやると、望ましくない結果になることがあります。そのひとつの例を挙げておきましょう。

それはSimon Lovellがバーでカードマジックを演じている動画を見たときに気づいたことです。彼は選ばれたカードをデックに返してもらったあと、その場に合ったジョークを言いました。一言のジョークではなく、少なくとも10秒ぐらいはマジックそのものと関係ない面白い話をしたのです。それはショーマンシップの観点ではとても面白いもので、客も大笑いしていました。それから彼はカードマジックに戻ったのですが、私はこれを見て、「選んだカードを忘れてしまう客もいるのではないかな」と思いました。

このように演じている途中に何かを挿入するというショーマンシップの使い方は、まさにSharpが指摘している、Artを壊すショーマンシップの一例ではないでしょうか。このようにSharpが重要なことを語っているのに、その一部だけを抜粋して批評するのは、批評の仕方としては望ましくないと思います。

もうひとつMulhollandの文章中に、Sharpの言葉尻を捉えた指摘があります。Sharpが”セリフというものはマジックに面白さを加味するものである”と書いているのに対して、”パントマイムでうまく表現できれば、セリフは必要ないのです”と書いています。Sharpは何もパントマイムよりセリフの方が優れていると書いているのではありません。あくまでもセリフの効用について指摘しているのです。

Mulhollandがこの書評を書いてくれたおかげで、きちんと通読していなかった”Neo Magic Artistry”が素晴らしい本であることを思い出すことができました。また読むことにいたしましょう。でもそれは、”Sphinx Legacy”の仕事が終わってからのことです。いったいいつになるのやら。”Sphinx”はあと20年分残っています。

(つづく)