“Sphinx Legacy” 編纂記 第95回

加藤英夫

出典:”Sphinx”,1934年1月号 執筆者:Fread Keating

今回は、Fred Keatingの書いている文章がかなり長いですが、現役ばりばりのマジシャンがその当時のマジック界の問題を赤裸々に指摘しているのが貴重な情報です。できれば一気に読んでみてください。

マジックを汚す者、貶める者への怒りが爆発したような文章です。まるでKeatingの怒鳴り声が聞こえてきそうです。怒りにまかせたまま書き殴ったのか、あまり説得力のある文章には感じませんでした。しかしながら怒っている様々な理由は想像できます。

マジシャンが”マジックは死んだ”と言って嘆くのを、私はいままでどれだけ聞かされてきたでしょうか。マジックというものは自然死によって死ぬものではなく、殺されるものであります。マジックは今もって業界ではエンタテイメント価値のあるものであり、死んだなんてことはまったくありません。確かにいままでのマジックというものは過ぎ去ったに違いありませんが。

HerrmannやKellarや、Houdiniの時代であってさえも、マジックはアートでありました。その時代のマジックは、ショー全体の豪華絢爛さが生命でありました。しかし今日では、マジックは’個’の魅力を表現するものに変わりつつあります。Dreiser、Walpole、Somerset Maugham、Sinclair Lewisなどが集まって、小説のスタイル、プロット、キャラクターについて話し合っているのを想像してみてください。彼らが話し合ったことにもとづいてそれぞれが小説を書いたとしましょう。小説を書くということはアートであり、書かれたものには書き手のパーソナリティや独自性というものが表れます。

そのようなことはマジックについても起きるべきことです。しかしながらマジシャンたちは、パーソナリティと独自性が表現の中に表出されるべきであることを理解していません。マジシャンが行うことはトリックではなく、そのトリックを使って自己のスタイルを見せることであり、それが観客を魅了するのです。すなわち、自己表現できるかどうかがパフォーマーにもっとも必要な資質なのです。トリックを売り込むのではなく、それを利用して自分を売り込むのです。HerrmannやKellarやHoudiniは、彼らを売り込みました。CardiniやJohn Mulhollandも今日における自分を売り込むタイプのマジシャンの典型です。Cardiniのパントマイムは、彼のマジックの技量と同等に素晴らしいものです。

今日のマジックの組織というものは、マジックの価値を低下させることに影響を与えていると思います。マジッククラブの会員の大部分は、マジックをかじった程度のアマチュアです。彼らはマジックで人を楽しませることよりも、マジックで自分が楽しもうとします。マジッククラブに入会したり、マジックショップで道具を買ったり、はたまたドラグストアでポケットトリックを買ったりすれば、マジシャンになれると考えています。すなわち金さえ払えば誰でもマジシャンになれると勘違いしているのです。

新聞や雑誌や本でのマジックの種明かしは、マジックのコマーシャリゼーションや低俗化ほどには有害ではありません。それよりもマジックには種があり、使う道具が玩具のように販売されていることを彼らが知れば、彼らはマジックがそれほど素晴らしいものだとは思わなくなるのです。

オリジナリティの欠如とマジックのイミテーションは、マジックの死につながります。観客は何年もまえに見たマジックを何回も見せられるのにうんざりします。彼らは見たことがない珍しいものを見たいのです。マジックは時代から20年は遅れています。とは言うものの、古いトリックでもうまく再構成すれば、今日でもヒットする可能性があります。

私はオリジナリティと言うとき、オレンジの代わりに玉子を使う、というようなことを言っているわけではありません。オリジナリティとは、マジシャンと観客との関係性についてのものであります。他人のアクトをイミテートするということは、マジックを殺すのに大きく影響してきます。しかしトリックは真似できても、パーソナリティは真似できません。Cardiniのトリックは真似できるマジシャンはいますが、彼のマナーやプレゼンテーションを真似できる人はいません。

私はイリュージョンというものには将来がないように思われます。イリュージョンでショーをやるには大量の道具を運ばなければならないからです。ナイトクラブやキャバレーはマジシャンの働く場として有望です。いずれにしても昔のような華々しいマジックショーの栄光は、望むべきものではないでしょう。そういうことからも、これからのマジックには、パーソナリティが重要なのです。

この論評はとくにプロマジシャンから評判がよく、翌2月号の編集者のページで、その様子をMulhollandがつぎのように書いています。

先月号のFred Keatingによる’Magic’s Murder’は、これまでの”Sphinx”の記事の中で、もっとも高い評価を得ました。とくに多くのプロマジシャンから多くの称賛の手紙が寄せられました。そのうちのひとつ、John W. Fryeからの手紙では、つぎのように書かれています。”マジッククラブがマジックとマジシャンに貢献するとしたら、いままでやってきたことの何が間違っていたかを考えるべき時であります”と。

私はこの論評を最初に読んだとき、Keetingが怒りにまかせて書き殴ったと感じましたので、あまり論理的に説得力のある文章だとは思いませんでした。しかしながらこれがプロマジシャンの共感を得たというMulhollandの報告を読んで、もういちど読み直しました。するとどうでしょう。どの部分もKeatingがどのようなことに対して怒っているか、よりはっきりわかったのです。そしてこの論評がとても重要なものだとわかりました。

Keatingは、新聞とか雑誌や本による種明かしは、マジックのコマーシャリゼーションや低俗化ほどには有害ではないと書いていますが、この’Commertialization’という単語を、最初に読んだときに私は間違えて’普及’と解釈してしまったのです。ですから、マジックを普及させることがなぜ悪いことなのだろうかと思ってしまいました。しかしながらこの単語は普及という意味ではなく、’商業化’という意味が正しいのです。

そう思い至ったとき、マジックの道具を一般の人々に販売し続けてきた私、本を書くことによって(ささやかではありますが)利益を得てきた私も、非難の対象なのではないか、もしかしたらKeatingはテンヨーのようにマジックをマジック専門家以外に販売することをも批判しているのではなかろうか、ということが頭をよぎったのです。

そんなことは絶対にあるはずがありません。テンヨーの商品を買った人は、買ってがっかりするようなものを売りつけられたはずがありません。”ラリー・ジェニングスのカードマジック入門”は、カードマジックファンを増やしてきたと私は信じています。

そこでさらにもういちどその部分の英語をじっと見つめました。”commercialization and cheapening of magic”と書いてあります。それを”マジックの商業化と低俗化”と直訳するから、意味がはっきり伝わってこなかったのです。それを”マジックの商業化における低俗化”と意訳すれば、意味が違ってきます。そのように訳せば、”金を儲けるためにマジックを低俗化”するという、そういったことをやっている人たちへの批判であり、テンヨーのようにしっかりした商品を世に送り出している人々、マジックの素晴らしさを伝えるような本を書く人々は、批判の対象ではないことがわかります。

このように書いてくると、もっと他のことについても書きたくなるのが私の性分ではありますが、そこはぐっと抑えて、”Sphinx”誌探索の作業に戻ります。

(つづく)