島田晴夫の神髄 第3回

加藤英夫

島田師との出会い

私は島田師や引田天功師にあこがれて、テンヨーに入社いたしました。初めて新富町のテンヨーの事務所を訪れたとき、入った所は土間になっていて、右側には商品棚があり、正面の畳敷きの部屋では、山田昭氏が、’シカゴの四玉’にラッカーで色を塗っていた印象が、強烈に残っています。そして左側には、等身大の鏡がありました。その前で、島田師がボールのマジックの練習をしていたことは、あとから聞かされました。

テンヨーの事務所に行ったからといって、島田師に会えたわけではありません。入社したとき私は19歳で、島田師は3歳年上の22歳でしたから、すでにプロマジシャンとして活躍していたからです。私が島田師と会う運命であったのは、私の最初の仕事が、新宿の伊勢丹のマジック売場での販売員となったことです。

ある日、島田師が私の売場に立ち寄られました。島田師もそのころはマジックマニアの部分もあり、私も同様でしたので、意気投合というのはこのことです。島田師はその後、よく伊勢丹の閉店間際にいらつしゃり、閉店したら、伊勢丹の近くの末廣亭の斜め前にあった、エルザという喫茶店に二人で行きました。

島田師から見せられたり、島田師が考案したマジックについては、”まじっくすくーる”No.38-40(1967年)に書かせていただきましたが、私の脳裏にはっきり残っているのが、島田師が教えてくれた以下のようなフラリッシュ的リビレーション手法です。あとで調べたら、‘ダレイツイスト’という技法だとわかりました。

1965年3月に、島田師は、’Tokyo Nights’と題したショーの一員として、オーストラリアに旅立ちました。そのショーには、それまで島田師のアシスタントを務めていた日本人女性は同行しませんでした。なぜなら、そのショーには日劇のダンサーが19名もいましたから、その内の2人がアシスタントを務めたからです。私はその女性は島田師と同棲していましたから、奥さんだと思っていましたが、そうであったかどうかは、いまは知る由がありません。

さて、オーストラリアの約2ヶ月のツアーから帰国したとき、とんでもない事件が起きていました。島田師と住んでいた女性がいなくなっていたのです。日本に残しておいたマジック道具もろとも消えていました。そんなことが、私が臨時アシスタントとして使われる原因なのでありました。私だけではなく、濱谷堅蔵氏も数回手伝われましたが、私は約1ヶ月、16回やらせていただいたと記憶しています。

かくして、島田師、加藤、濱谷氏は、ともにアクトの練習をすることになります。そして島田師は、濱谷氏が語ったことから、重要なマジック手法と出会うことになったのです。

島田師と鳩のベアハンド手法との出会い

濱谷氏は、高木重朗氏のレクチャーで、南米のマジシャンが、シルクを使わずに、素手で鳩を出現するマジックをやっていたことを聞きました。そのやり方については、高木氏も知らなかったそうですが、その話を聞いて、濱谷氏は独自に仕掛けを作りました。そして作った仕掛けを私にくれました。私はそれを使って、いまではベアハンド手法と言われるやり方を、色々と研究いたしました。そしてその研究結果を島田師に伝え、ちょうどアシスタントをやり始めるときでしたから、島田師、濱谷氏、そして私の3人で、ベアハンド手法を練習いたしました。そのときに、濱谷氏が撮影した映像が残っていますから、ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=6HFaNV2MkAA&t=1s

島田師は、鳩出しの数々の手法を編み出されましたが、ベアハンド手法については、3人のコラボレーションによって誕生したのでした。たとえば、リングの上に鳩が現れるやり方は、鳩を出すのは私が考えましたが、シルクをリングのまえにかざし、それをどけたときに鳩が現れる、という見せ方は島田師が考えたことです。

出会いと言えば、島田師には、何よりにも重要な出会いがありました。それは最初のオーストラリアツアーにおける、ディアナ・パーキンスさんとの出会いでした。その出会いについては、ディアナさんが”GENII”1969年9月号に書いていますので、引用しておきます。

愛は魔法

オーストラリアのアデレードの月曜日の夜だった。オーケストラピットからファンファーレが鳴り響き、劇場の照明は突然暗くなり、舞台中央を照らすスポットライトだけが残っていた。

「今何が起こっているんだ?」と私は思った。すると「彼」が現れた。背が高く、シルクハットをかぶり、マントを羽織り、今まで見た中で最も神秘的で大きな東洋人の目をした人物だった。

彼はパフォーマンスを始め、どこからともなく白い鳩を出現させ、カードを操り始めた。そして信じられないほどの技巧でタバコを操り、白い鳩を空中に投げ上げるという壮大なフィナーレを飾ったとき、鳩は天井を突き抜け、数枚の羽根だけが舞い降りて飛んでいったように見えた。私は少なくとも30秒間、その天井を見つめていたに違いない。

4ヶ月間、合計100通以上の手紙をやり取りした後、島田は母国日本からオーストラリアに戻り、私たちは静かに結婚しました。そして私は「マジシャンのアシスタント」になりました。オーストラリアでの仕事は面白くて多岐にわたりましたが、島田の興味と野心はアメリカ合衆国に向けられていたので、私たちは後にアメリカに行くつもりでメキシコへ出発しました。しかし、運命のいたずらか、私の病気のため「国境の南」で10ヶ月働いた後、日本に戻りました。しかし、今度は島田が以前のように一人ではなく、妻と娘と一緒に戻ってきたので、私たちは笑いながら、本当に「愛は魔法」なのだと思いました。

このあとも島田師には、数々のドラマチックな出会いがありました。それらのことについては、またお話しさせていただきます。次回はいよいよ、私がアシスタントをやらせていただいたときに、島田師から学んだ重要なことをお話しいたします。

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