第11回「天海と読心術」
石田隆信
天海氏はスライハンド・マジックの名手として知られています。しかし、1回目と2回目の一時帰国時に読心術を演じられていたことはあまり知られていません。
このことを報告されていたのが、1963年発行の金沢天耕著「奇術偏狂記」です。
この本によりますと、読心術の研究を渡米以前に天勝氏と南部氏との3人で始められたそうです。しかし、天海氏は独自の方法に変化しているようです。それでも共通しているのが、相手に演者の手を握らせている点です。または、演者が相手の手を握っています。
1回目の一時帰国は、1931年1月から1932年10月ですが、この時に徳川義親邸で行われています。このことに関しては、1982年の「TAMC50年のあゆみ」で坂本種芳氏が詳しく報告されていました。徳川家の一人に心の中で思ってもらったことを、天海氏がその人の手を握り、行動に移していました。2階へかけ上がり、そこに飾ってあった鎧かぶとに近づき、日本刀を取り上げて階段をかけ降りてきたそうです。金沢天耕氏の記載では、TAMCのメンバーから聞いた話で、その時の徳川家の人物は娘さんであったと書かれています。
なお、天海の「奇術五十年」の本では、2回目の帰国時のことのように記載されていました。しかし、坂本種芳氏の報告ではTAMC創立頃のことで、1回目の帰国時が正しいようです。「奇術五十年」では、徳川家の令妹相手に行い、刀は緒方博士に渡されていたことが報告されていました。そして、その通りのことを、最初に令妹が思念していたと証明されたそうです。
2回目の一時帰国は、1935年8月から1936年7月の間です。その時に金沢天耕氏は6回も天海氏の読心術を見られたそうです。その全てで、思ったことの証明のために、事前に紙にその内容を書かれていた共通点があります。
その最初が1935年11月12日の和歌山県の病院で、傷病兵の慰問を奇術クラブで行った時です。天海氏にはクラブメンバーの演技を見てもらうだけの予定が、天海氏から一つ変わったことをやってみたいと言われて演じられました。
舞台一面に約10品をバラバラに並べ、読心術をやりますと言われたそうです。この舞台上の品物でも、また、この部屋にある品物でもよいので、それを取り入れた実際の行動の文章を作らせて紙に書かせています。これを3人に室外で合議させ、文章を書かせていました。
紙を二人が持ち、もう一人を舞台に上がらせ、天海氏の手を握らせ、文章を心に思わせて、すぐに行動を開始されました。その行動の後で紙を開いて読ませると「舞台を降りて、部屋の東北の隅にある慰問の菓子をとって、何某という兵士に持たせて舞台に上げて、菓子を開いて食べさせ、茶碗と土瓶を持たせて茶をついで飲ませよ」となっていました。もちろん、その通りの行動を客に手を握らせながら天海氏が行われたわけです。
金沢氏が見た6回のうちの3回は、金沢氏自身が文章を書いて、天海氏の手を握ったそうです。1回だけ当たらなかったのを見たのは、同窓会に特別に出演してもらい、その後の慰労会でかなりお酒を飲まれていた時です。料理屋の小座敷の中の品物の名前を紙に書かせ、校長が書かれた品物が当たらなかったそうです。その時に天海氏は「書かれたものと違うものを思ったでしょう」と言うと、校長はいさぎよく謝罪されたそうです。別の二人が書かれた品物は当てています。
以上のことから、二つのパターンが考えられます。複雑な長い文面と短い品物名の場合です。長い文面は特別な仕掛けを使い、複写された内容を秘かに読んでいたと考えられます。短い品物名の場合は、四つ折りにした小さい紙を秘かに読まれていると思います。
短い品物名の場合に関係した方法が、1933年発行の”Al Baker’s Book”の冊子に解説されています。24ページの冊子で”Al Beker’s Billet Mystery”として4ページを使い、多数のイラストで解説されていました。この方法では、封筒を持った状態で、四つ折りの紙をスイッチしたり、秘かに開いて読んだり、それを素早く閉じています。
また、1935年1月に発行されたアネマンの本の中の「テレパシー・プラス」では、封筒を使わず、3人に書かせて折りたたませた3枚の小さい紙を、カップに入れて行っています。こちらでは当たっていることの確認で堂々と紙を開いて見ていますが、スイッチの繰り返しが必要です。この解説は、1997年の松田道弘著「メンタルマジック事典」の63ページに解説されています。
この頃のアメリカは、このようなマジックに人気があり、いずれもテクニックを必要とする読心術です。天海氏も興味を持たれ、封筒やカップを使わずに、改良した方法で行われていた可能性があります。アネマンも1944年の”Practical Mental Magic”には、紙と筆記具だけで3人相手の方法を解説されています。それはバート・リースの方法で、1928年には亡くなっているのですが、このような方法で最も成功した人物であるとアネマンは報告しています。この方法は1993年の松田道弘著「超能力マジックの世界」の78ページの「ビレット・テスト」として解説されています。
ところで、天海氏の場合、実際にはどのように行ったかの解説がありません。海外の方法とは全く違う可能性もあります。もしかしますと、かなりのボリュームがある天海メモのいずれかに記載されていたのかもしれません。
アル・ベーカーはニューヨークのマジシャンで、1930年代初めからマジックショップも経営されています。シルクやジャリを使ったマジックを得意とし、メンタルマジックの分野でも有名です。なお、1949年にはメンタルマジックの本を発行されています。
1934年の天海氏には継続した仕事がなく、ニューヨーク郊外に家を借りてマジックの研究が中心となります。この時にアル・ベーカー、マルホランド(スフィンクス誌の編集者)、フランク・ズークローなどと交流されていたことが「奇術五十年」に報告されています。ズークローは元マジシャンで、1920年頃よりマジックショップを経営しています。天海氏は情報を得るためにマジックショップにはよく訪れていたと思います。
このニューヨークでの天海氏の研究テーマは、大きく二つあると考えられます。ボードビルの劇場が次々と廃業となり、それとは逆に、1934年頃からキャバレーやナイトクラブが次々とオープンしています。1933年で禁酒法が終了したからです。そちらのマジックに向いた新しい演目の考案や演出法の研究をされていたようです。もう一つの研究が新しい大道具の情報と図面の入手です。1回目の一時帰国時に天勝氏より依頼を受けていたようです。
1935年8月に2回目の帰国となりますが、早速、和歌山の谷口勝次郎氏と大道具の制作に取り組まれています。この時に金沢天耕氏や和歌山の奇術クラブの指導をされることになります。上記の病院での読心術の演技の後、少人数でもそれを依頼されて演じることが多くなったようです。
松旭斎天勝氏も読心術を演じられていますが、上記の天海氏とはかなり違っています。1968年発行の石川雅章著「松旭斎天勝」の186ページに、1924年2月初めのハワイでの公演の番外として読心術が演じられたことが報告されています。天勝氏が読心術を行う相手の手を握り、例えば、舞台上で数名に立ってもらった中の一人の上着を脱がせたり、別の例では、客席に座っている特定の人物を引っ張り上げていました。もちろん当たっていたわけですが、これはどちらかといえば、天勝の手が握れることが評判になったようです。
天勝氏の場合、何をしようとしたのかを事前に紙に書かせていないので、それが正解かどうかは、行動後で相手が同調する発言をされることだけです。また、徳川邸での天海氏の読心術も、先に紙で書かれていなかったとしますと、事前に何かの情報を得られていたのかもしれません。
それらに比べて、2回目の帰国時に金沢天耕氏が見た読心術の全てが事前に紙に書かれ、はっきりとした正解のあるものばかりでした。その中でも、小さい紙に書かせる方法は、それまでの日本では演じられていなかったと考えられます。技術を必要とする点で、天海氏向きの読心術であったのかもしれません。
(2021年6月22日)
参考文献
1933 Al Baker Al Baker’s Book Al Baker’s Billet Mystery
1935 Annemann Complete One Man Mental and Psychic Routine Telepathy Plus
1944 Annemann Practical Mental Magic Bert Reese Secrets
1961 石田天海 奇術五十年(柳沢よしたね氏による聞き取り執筆)
1963 金沢天耕 奇術偏狂記
1968 石川雅章 松旭斎天勝
1982 TAMC50年のあゆみ 21ページでの坂本種芳氏の報告
1993 松田道弘 超能力マジックの世界 ビレット・テスト
1997 松田道弘 メンタルマジック事典 ビリット・スイッチの実例