第13回「天海のカラーチェンジ」

 

石田隆信

天海の方法は、それまでの同様な方法の中でもトップクラスのカラーチェンジです。1959年のバーノンのカードマジックの本では、多数のカラーチェンジ(9作品)が掲載されていた中で最初に解説されていました。

その特徴は、普通のパーム的な方法を使わずにチェンジしている点です。それまでの多くの方法では、デックの前後か左右から突出させたカードを右手にパームしてチェンジしていました。天海の方法は、右親指で後部のカードを前方へ引きずり出して、水平に保たれた状態にしています。そのままの状態で、デックの表の下から出ている左中指や薬指の上まで持ってきています。水平にしたカードがデックの上サイドを通過する時に擦れる音が生じますが、ステージやパーラーでの使用では気になりません。元々、ステージのマニピュレーションでの使用で考案されていますので、大胆な発想のカラーチェンジです。上記のイラストは上から見た状態です。

1959年のバーノンの本では、クロースアップにも使えるように音が発生しない工夫が加えられていました。水平になったカードの右コーナーを右親指の股に近い部分でサムパーム的な状態にして、左コーナーは右中指の上へのせて安定させています。この状態で行うと全く音が出なくなります。天海とバーノンの素晴らしさを感じさせられるカラーチェンジです。

このカラーチェンジは戦争開始時にハワイで制作された”Tenkai’s Manipulative Card Routine”の冒頭で使われています。カラーチェンジの操作ですが、ここでは表のカードを右手に取って胸ポケットへ投げ入れる操作で消失させ、後で胸ポケットからカードを取り出しています。胸から取り出すカードの裏に丸めたシルクが隠されており、デックに加えてファンに広げた時にシルクを出現させています。

この本は1942年頃の制作と考えられますが、戦時中のために本の広告が掲載されたのは終戦の1945年の夏です。多数のイラストを天海氏が描かれ、ビル・ムラタ氏により解説されています。この本は1974年の”The Magic of Tenkai”にそのまま掲載されます。また、この本の日本語改訂版が1968年の「天海のカード・マニピュレーション」の本です。翻訳と写真モデルは高木重朗氏で、天海氏の意見を伺いながら制作されています。なお、イラストは小野坂東氏で、写真撮影と発行者は風路田政利氏です。

その日本の本の冒頭の「序」で天海氏は、開戦当時にハワイからシカゴのマジックショップのIrelandへ本を送り「時節がこのようであるから(中略)国際事情が良くなるまで保管しておいて、時を待って発表してほしい」と添え書きをされていました。それに対してIrelandの返書では「芸術に国境なし、心配するな天海」と書かれ、その後、3ヶ月で売り切れたそうです。また、バーノンも彼のレクチャーで、この本のカラーチェンジや天海パームから彼のテクニックのヒントを得たとよく語っていたそうです。

天海のカラーチェンジでは、最初に不要と感じてしまう操作があります。しかし、その操作により、次のカラーチェンジのための右手の前方への動きの注意力を減らしているのではないかと思います。デックを左手に持ち表を客に向け、少し左向きでサイドが上下になる状態にしています。上サイドの中央を右手の親指と人差し指で挟んで持ち、その部分を支点にして、正面を向きつつ左手で90度右回転させデックを縦長の状態にしています。この時に左人差し指でカードの表を指し示し、その後、左手で90度左回転させて元の状態に戻します。このハッキリ分かる動きに対して、次の右手の前方への動きが認識されにくいものである点も面白いと思います。

カラーチェンジさせる最後の部分の操作も天海氏の場合は特徴的です。デックの表を右手でカバーした後、表のカードを指先から握り込んでしまう操作をします。この握った指を擦り合わせて、カードが粉々になって消えた現象にしています。ステージの演技では、これを行いつつ胸ポケットへ投げ入れるモーションも加わります。

ところで、私が1970年代に天海のカラーチェンジを知った時の印象はかなり違っていました。デックの表を示して、次に右手が表をカバーした瞬間に右指を開くとチェンジされていました。または、デックの表を右手でカバーして、指を開いて何も起こっていないことを見せた後、指を一度閉じ、すぐに開くとチェンジされていました。結局、これらは天海自身の方法ではなく、応用版といえます。天海氏はカラーチェンジとして単独で派手に見せる方法よりも、マジックの中で使う現象として見せていたようです。

天海の方法も元になるカラーチェンジがあるはずですが、それを考える上で参考になるのが1902年のアードネスの”The Expert at the Card Table”の方法です。6作品が報告されている中で、3と4と5番目の方法に関連性があります。3番目の方法は、右手で表をカバーして左親指で後部のカードを押し上げるのと同時に、右手も上げてそのカードを右掌へ押し当てていました。4番目は3番目の方法と同じで、デックがぐらつかないように左人差し指と小指で両側のエンドを挟んで持つ改良型です。そして、5番目はデックの表が上向くようにして左手に持ち、右手で表をカバーした時に右親指をデックの下へ回しています。右親指を後部のカードに押し当てて、右手を手前へ引くとカードが右手にパームされ、その後でチェンジしています。

天海の方法では、アードネスの5番目の方法のように右親指で後部のカードを手前へ引いていますが少しだけです。手前へ引くのは、デックの上サイドの左端に置かれた左親指よりも、後部のカードを右手前側にするためです。その位置からアードネスの3や4の方法のように上サイドを通過させることになります。しかし、左親指ではなく、右親指を使って後部カードを引きずり上げて、デックの上サイドを水平に滑らせるように前方へ移動させています。

天海のカラーチェンジの歴史には奇妙なことがあります。実は天海のカラーチェンジとして最初に発表されていたのは1938年のグレーターマジックの本です。しかし、そこでの解説はデックを縦長に立てた状態で行なっていました。問題はこの方法では、後部のカードを少し右手前へ引くと、その状態が右手の下部から丸見えになることです。さらに、後部のカードを水平にする動きが大きいので、見えてしまう恐れもあります。

この解説では、最初に右指でデックの表をなでる操作があります。また、カードを水平状態にしてからもデックの表をなでています。さらに、水平のカードを右親指と人差し指の間でピンチしている点も違っています。これは天海の完成した方法ではなく、試行錯誤中の初期の特殊な方法で、それをヒリヤードが記録されていたのかもしれません。それとも、思い違いをして間違った解説をされたのでしょうか。結局は謎のままです。ヒリヤードは1935年3月に死亡し、天海は1935年夏に2度目の一時帰国されています。ヒリヤードの原稿を元にしてヒューガードが編集して発行されたのが1938年の「グレーターマジック」となります。

天海氏にアードネスの方法やカードの各種テクニックを見せたのはDr. Daleyではないかと思っています。Whaleyの”Who’s Who in Magic”によりますと、Dr Daleyはアードネスの本が愛読書であったようです。また、カードテクニックの研究家であり、1934年から35年には天海氏と会っていることが「奇術五十年」に報告されています。そして、その頃にヒリヤードにも会って、天海の方法が彼の原稿に書かれたものと思います。天海氏にとってのニューヨークは、新鮮な情報と刺激を与えられる魅力的な都市であったのかもしれません。

(2021年7月6日)

参考文献

1902 S.W.Erdnase The Expert at the Card Table Transformations
1938 John Northern Hilliard Greater Magic The Tenkai Color Change
1942頃 Tenkai Tenkai’s Manipulative Card Routine
1959 Lewis Ganson Dai Vernon’s Inner Secrets of Card Magic Tenkai Color Change
1968 石田天海 天海のカード・マニピュレーション
1974 Gerald Kosky & Arnold Furst The Magic of Tenkai