第1回「インターロック・カードプロダクションの原案と天海の方法」
石田隆信
インターロック・カードプロダクションは、両手を組み合わせ、裏表をあらためながら1枚ずつカードを出現させる方法です。日本では木の葉カードとも呼ばれ、石田天海氏が考案された方法として知られています。ところが、海外ではクリフ・グリーンの考案とされています。両手を組み合わせてカードを出現させたのは、クリフ・グリーンが最初で間違いなさそうです。しかし、天海とグリーンとでは方法が全く違っています。
大きな問題が、天海の方法もグリーンの考案として発表されていたことです。1940年の”Expert Card Technique”の本で、インターロック・プロダクションのタイトルで初めて解説されます。それが天海の方法であったのですが、考案者がクリフ・グリーンと記載されていました。この間違いは、1961年のクリフ・グリーンの”Professional Card Magic”の本の中ではっきりと指摘されます。このような間違いとなったのは、”Expert Card Technique”の本の著者が原因です。この本の多くの内容が、西海岸のFrederick Braueのノートを元にした作品原稿を、東海岸のJean Hugardが編集して制作されていました。クリフ・グリーンの本によれば、Hugardからインターロック・プロダクションの掲載許可の依頼があり、承諾するのですが、クリスマスセールまでに本を完成させるには間に合わないとのことで、彼からは原稿をもらわず、Braueの原稿が使われたそうです。そこに解説されていたのが天海の方法であったわけです。しかし、グリーンの本では天海の名前を書かずに、日本人により発展させた方法と書かれているだけでした。
グリーンは両手を組んで裏表のあらためがありますが、カードの出現は組み合わせた両手の背部を客席へ向けたままで、上方へ1枚ずつ次々に出現させています。掌側のあらため時には、カードを半分に折りたたむような状態で手背で保持しています。天海の場合は、組んだ両手の裏表をあらためつつ、手掌を客席へ向けた時に手の中に出現させています。そのカードを落下させた後も、組み合わせた裏表のあらためを行って、1枚ずつ出現させることを繰り返しています。両手を組み合わせるのは同じでも、それ以外が大幅に違っています。
Braueは新聞記者のアマチュアマジシャンで、1930年代中頃から西海岸で見た最新のマジックを、方法を教わらずに推測しただけの内容で詳細に記録されていました。その中に天海のこのプロダクションがあったわけです。”Expert Card Technique”の本は当時のバーノンや関係者が秘密にしていた内容も暴露されていますので、現在でも研究書としての人気が高く売れ続けています。そのために、このプロダクションをクリフ・グリーン考案と思ってしまうマニアが継続することになります。1954年のニュー・フェニックス誌にチャニング・ポロックの方法が掲載され、ほとんど天海の方法と言えるのですが何も書かれていません。ここでの解説やイラストは許可をもらい、1974年の”Magic of Tenkai”の本に再録されています。残念ながら、単に再録されただけで特に説明がありませんでした。1959年にはウォルター・ギブソンの方法が冊子で発行されますが、それも天海の方法の改案です。同じ1959年発行のルイス・ギャンソン著”Dai Vernon’s Inner Secrets of Card Magic”では、バーノンは天海の方法を改案したと書かれていますが、天海はクリフ・グリーンの方法に重要な変更を加えたもののように紹介されていました。しかし、天海はクリフ・グリーンから全く影響を受けずに、独自で考案されていたことが、その後の日本の本により明らかになります。
1975年に石田天海著「奇術五十年」が再販されますが、新たに第2部として「歩みの跡」が追加されます。その176ページには、1924年のロサンゼルスのSAMの集まりに天海夫妻が通訳のハリー・重田氏と初参加した時のことが報告されています。西海岸の公演を終えて、ニューヨーク公演の契約待ちをしていた1ヶ月間のことのようです。この時に重田氏は、「白人に望まれたら、天海さんのオリジナルの両手を組んでカードを1枚ずつあらわし、バラバラと落として行くあの奇術を一つだけやり、夫婦そろって引き下がりなさい」と助言され、その通りにして絶賛されたそうです。ハリー重田氏は写真研究家ですが、アメリカのマジック事情に詳しく、天海氏のオリジナルのマジックが喜ばれると予測されたようです。つまり、1924年のアメリカ上陸時には、すでに完成されていた天海のオリジナルのプロダクションであることが分かりました。また、1976年発行の松旭斎天洋著「奇術と私」の329ページには、天海の考案のきっかけとなる、1911年に来日されたジャンセンのことが報告されています。ジャンセンとは、1934年にはダンテの名前で再来日した若い時の名前で、天洋氏はジョンソンとして記憶されていたようです。「私がジョンソンを見たとき、両手に5枚のトランプを持ち、これをそのまま、掌の前後を客に見せたのち、その5枚のトランプを口中から出した。ジョンソンはここまでしかやらなかった。この話をしたら天海はこれにヒントを得て、研究の結果・・・(以下省略)」。それに対して、グリーンは10代で見たArnold De Biereのビリヤードボールの演技で、両手を組み合わせてボールを消し、再現させる現象をカードに応用したそうです。結局、二人の考案のきっかけが違っており、方法も違ったものになっていたわけです。
1937年のMax Holdenによる有名マジシャンの演目集の冊子では、1934年の天海夫妻の演技内容が紹介されています。オープニングでは夫妻そろって両手を組み合わせ、観客に掌を向けて1枚ずつカードを出現させ、その度に両手の裏表をあらためていたと報告されています。この頃には既に天海夫妻が演じられていた証拠になるだけでなく、インターロック・カードプロダクションの現象が記載された最初となるのかもしれません。クリフ・グリーンが早い時期から、別な方法で演じられていたことが東海岸中心に知られていたようですが、1930年代までにそのことを報告した記事を見つけることができていません。グリーンの方法の解説も1961年が最初です。彼の方法よりも、それに近いCottoneやそれを改案したセンダックスの方法が先に解説されています。1940年にグリーンの方法として解説されていたのは天海の方法ですが、それが天海の方法として正式に発表されたことがありません。そのためか海外の文献では、天海の方法もグリーンの考案とされているか、グリーンの改案をした天海としてしか知られていません。
クリフ・グリーンは10代の年齢でプロになり、1910年代前半から東海岸のボードビル劇場中心に1930年代まで活躍されたカード・マニピュレーターです。1988年のT.A.Waters著”The Encyclopedia of Magic and Magicians”では、インターロック・カードプロダクションはクリフ・グリーンにクレジットされ、Cottone、センダックス、天海、バーノンが、その後の発展に影響を与えたと書かれています。2007年のBart Whaley著”Encyclopedic Dictionary of Magic”では、クリフ・グリーンが10代であった1910年代の早い時期に考案とされ、天海に関してはペット・イフェクトであったと書かれているにすぎません。インターロック・カードプロダクションの主流になっている天海の方法は、1924年の渡米時には既に完成されていた天海独自の考案によるものであることが、もっとアピールされるべきだと思いました。
(2021年4月4日)
参考文献
1937 Max Holden Programmes of Famous Magicians 1934年の天海夫妻演技
1940 Jean Hugard & Frederick Braue Expert Card Technique
1946 Joseph Cottone Card Production 3ページの解説商品
1954 Channing Pollock New Phoenix No.313 イラスト8つ
1959 Walter Gibson The Interlocked Back and Front Hand Card Production
Gibson, Pollock, Dr Victor Sendaxの方法を解説
1959 Lewis Ganson Dai Vernon’s Inner Secrets of Card Magic
VernonとBob Hummerの方法を解説
1961 Cliff Green Professional Card Magic Interlocked Card Production
GreenとCottone-Sendaxの方法を解説
1974 The Magic of Tenkai 1954年のNew PhoenixのPollockの方法を再録
1975 石田天海 奇術五十年 歩みの跡 1924年のロスのSAM例会で実演
1976 松旭斎天洋 奇術と私
1988 T.A.Waters The Encyclopedia of Magic And Magicians
2004 石田隆信 Toy Box Vol.7 カード・マニピュレーションの誕生期について
2007 Bart Whaley Encyclopedic Dictionary of Magic
加藤英夫氏から以下のコメントが届きましたので、ご本人の承諾を得て、紹介させていただきます。