石田天海とカーディーニの奇術合戦
麦谷 眞里
私は石田天海の謦咳に接したこともなく、もとより天海研究家でもないのですが、いくつかの媒体を通じて石田天海という職業奇術師に対する私なりの理解をしていますので、そのことは書くことができます。
「天海の講習ノート」という小冊子があります(写真1)。手書きのコピーを簡易製本したもので、著者は、名古屋アマチュア・マジシャンズ・クラブの会員であった大矢定義氏(故人)です。1981年の刊行ですから、天海の死後10年ほど経ってから出たことになります。内容は、大矢氏が名古屋の石田天海邸で、月に2度行われた講習に基づいてメモされたものです。
「No.1」と書いてありますが、No.2以降が刊行されたかどうかはわかりません。しかし、大矢さんのことですから、おそらく続けて刊行されたと思います。「大矢さんのことですから」と書きましたが、それは、かつて、大矢さんが私の発行する奇術専門誌”masquerade part I”の購読者だったからです。雑誌を送付すると決まって旬日を経ずして大矢さんから質問の葉書や手紙が届きます。私は、その都度、丁寧に返事を出しておりましたが、故高木重朗氏は、同様に著書に関する質問を大矢さんから受けても、ほとんど回答はしておられませんでした。それは、高木さんの場合は全国から山のように問い合わせが来るからで、そもそも、超多忙な高木さんが、その質問のすべてに目を通して回答することは物理的にも時間的にも不可能だったからです。
たとえば、高木さんからこんな話を聞いたことがあります。大矢さんから手紙が来て、「解説には、『カードを伏せて置く』と書いてあるが、これは表向きで置くのか裏向きで置くのかどっちですか?」と質問が来たそうです。高木さんは、憮然として、「伏せて置くんだから裏向きに決まっているだろう」と私におっしゃっていました。
このエピソードを紹介したのは、大矢さんの質問は、このように細かいことが多く、したがって、大矢さんの書かれた、この「天海の講習ノート」は、大矢さんが重要だと思った点をかなり細部に亘ってメモしてあるということを意味しています。ただし、私の所有する「天海の講習のノート」は、大矢さんから直接購入したものではなく、これを名古屋名鉄百貨店の手品用品売場のディーラーが販売していて、それを購入された方から譲り受けたものです。
読んでみると、これは、まさに大矢さんの個人メモというか備忘録で、一度天海からカード奇術を習った者が参照に読むのはいいのですが、まったく初めての人が、これで天海のカード奇術を会得するのはきわめて困難です。理由はいくつかあります。ひとつは、全体像が書かれていないので、いくつのステップから構成されている手品なのか流れが不分明なこと、ふたつめは、カードの位置関係はわかるが実際のハンドリングがわからないこと、3つめは、これは解説書ではないので、メモの内容そのものが間違っている場合は、書いてある通りにやってもこのカード奇術ができないこと、などです。
石田天海(1889年ー1972年)がアメリカ合衆国での職業奇術師活動を辞めて日本に帰国したのは1958年です。したがって、晩年の14年間、主として名古屋に居住されていたことになります。私も1967年から数年間名古屋に住んでいましたから、石田天海と同じ空の下にいたのですが、なぜか、一度もお会いしたことがありませんでした。何かの奇術大会で、ステージの上で小品を演じられたのを拝見したくらいで、個人的な知遇を得たことはありません。理由はわかりませんが、当時、たとえば名古屋アマチュア・マジシャンズ・クラブは、私のような高校生には敷居が高く、その種のクラブに所属していなかったのが遠因かもしれません。いまから考えるともったいないことをしました。
さて、この小冊子がそんなに沢山配布されたとも思えませんので、せっかくの石田天海のカード奇術の記録が散逸しないかと気がかりです。こういう記録を集めて保存しておく作業が必要だと思います。また、このノートが天海の講習のメモであることはすでに述べましたが、重要であるにも関わらず、メモにまったく書いてないことがけっこうあります。それは、おそらく、大矢さん自身が、メモに書くまでもないと思われたからです。しかも、このメモは、当然といえば当然ですが、このカード奇術を不思議に演じることに主眼があり、おそらく天海が語ったであろう、なぜ、この作品を考えたか、とか、技法は誰のものとか、誰のカード奇術に影響を受けた作品だとか、およそ私が知りたい周辺のことは何も書いてありません。天海はダイ・バーノンと親しかったので、たとえば、バーノンはこう演じていたとか、そのような瑣末なことを知りたいのに、そうした情報は一切収録されていません。
ちなみに、「天海の講習ノート」に収められているカード奇術のタイトルだけを列挙すると、次の通りです。
①客とやるカード
②いつも客のカードが
③3つの山
④両側のカード
⑤ケースの中のカード
⑥客のカードを当てる法
⑦水と油
⑧なくなったクィーン
⑨3枚同じカード
⑩誰も起こらないでしょう
⑪私のマネをしてごらん
⑫⑪の別バージョン(ギャフ・カードを使わない方法)
⑬チェンジング・カード
⑭ミステリー・フォア・エーセス
⑮客のカードを1枚抜く法
⑯移動するエース
⑰分けられないカード
⑱フォア・エーセス
⑲ファン・カード
⑳セブン・カード
⑳+①ファントム
⑳+②アルディニーのカード
このうち、⑲以下はステージで行なうカード奇術です。最後の2つは奇術用具も使いますので、「天海のカード奇術」というよりも、「カードを使った奇術の天海の演出(見せ方)」と言ったほうがいいかもしれません。
ところで、すでに述べたように私自身は石田天海と個人的にお会いしたことはありません。したがって、間接的に把握するほかないのですが、石田天海に関する本としては、その半生を自分で綴った「奇術五十年」があります。この本は朝日新聞から刊行されたもの(1961年)と、それを増補・訂正して新たにユニコン貿易が500部限定で出したもの(1975年)、それに、朝日新聞版を底本として再編集して日本図書センターから出されたもの(1998年)の3種類があります。私は3種類とも所有していますが、このうち、ユニコン貿易から出版された500部限定のものの定価は3500円であるにも関わらず、古本屋では5000円近くします(写真2左)。「奇術五十年」は、手品関係のものを中心に扱っている古書店ではこのように5000円もします。一方、街の普通の古本屋なら、そもそも一般に需要がないので、1500円前後で売っています。この本が書かれた時点では天海の奇術歴は「五十年」だったのですが、結果として、六十年の奇術人生でした。
このほかにも私が所蔵している石田天海関連の書籍を、良い機会ですので、何冊か紹介します。ただ所蔵しているだけの本では意味がないので、比較的ユニークなものを選んで紹介します。まず、邪宗門の故風呂田政利氏がダイ・バーノンに贈った”THE THOUGHT OF TENKAI”で、ケースにバーノンの署名があります(写真3)。
バーノンはもらった本に自分の蔵書であることを示すために署名することが多いらしく、ジェラルド・コスキーとアーノルド・ファーストが共同執筆して、やはり、ダイ・バーノンに謹呈した”THE MAGIC OF TENKAI”(写真4)にも、バーノンの蔵書であることを示す署名があります(写真5)。
さらに、石田天海自身が、「天海のカード・マニピュレーション」を2回に分けて合計2冊ダイ・バーノンに贈っており、これには、天海の直筆が添えられています(写真6)。
1冊は、たぶん天海が自分でバーノンに贈呈したものであり(写真6)、もう一冊は、訳者の高木重朗さんを通じて贈呈したもので、期日が異なります(写真7)。
そのほか大野正治氏が編纂された「アルバム石田天海・おきぬ」も所蔵していますが、これは特にどなたの署名もありません(写真8)。
私がなぜ、これらのダイ・バーノンに謹呈された本を所有しているのかということのタネ明しをすると、手品のタネはいつも単純で、アメリカで行なわれたダイ・バーノンの遺品のオークションで落札したからです。これら以外にも、風呂田政利氏や高木重朗氏、あるいはその他の著名な日本の奇術家がバーノンに贈られた本も合わせて私の手元にあります。
さて、「奇術五十年」は素晴らしい本です。明治時代の、日本の奇術界がどのような状況であったのか俯瞰できますし、天海自身が松旭斎天勝一座の一員で渡米したため、内側から見た当時の奇術一座の状況や天勝一座の公演に対するアメリカ合衆国での反応についてよくわかり、とても重宝します。私が感動したのは、天勝一座がニューヨークの一流劇場で上演することになったときに、ニューヨークの舞台監督にそれまで2時間かけて演じていて評判も良かった公演をたった22分で演じるように練習させられた話とか、初めて観たハワード・サーストンの舞台に驚きすぎて終演後椅子から立てなかったことなどです。いまでも、ニューヨークやラス・べガスのジョー・ビジネスの世界で生きて行くのは並大抵の努力ではありませんが、100年も前からそうだったとは思いもよりませんでした。
ところで、大矢定義さんは非常に几帳面というか筆まめな方で、「カード奇術の技法について」という「講習ノート」と同じように手書きで書かれたものをコピーして製本した小冊子もあります(写真9)。おそらく、天海からカード奇術を習っているうちに、教えられたり紹介されたりした技法をまとめたものと思われます。
いまとなっては、標準的な技法の数々ですが、この当時、このようにカード奇術の技法を整理した本は日本にはありませんでしたから、当時は相当に貴重なものだったと思われます。
さて、石田天海の「奇術五十年」に書いてあることで、ずっと私の心に引っ掛かっていたことがいくつかあります。その最大のものは、カーディーニとの、俗に言う、「奇術合戦」のことです。石田天海自身の「奇術五十年」の記述は淡々としていて、引用すると次の通りです。
『記者と、SAMの代表者との立ち会いで、決着をつけようということになった。その時、別々な劇場で互いに技を競った結果、彼(注・カーディーニ)より私(注:天海)のほうが二年も早くニューヨークのステージに出ていたため、私の勝利に終わった。つまり私が先輩というわけである。ボールの奇術は、私のほうがうまく、タバコは互角の判定が下った。そこで私がタバコを引っ込め、彼がボールの奇術をやめることで話がついた。』
この記述を元に、以後の多くの日本の奇術愛好家や研究家が「天海がカーディーニと奇術合戦して勝った」と書いています。勝負とか試合なら、ルールとか判断基準とか、審査員の顔振れとか、いつどこでどのような仕様・段取りで行なったのか、そういう紹介があるのが普通ですが、そういう詳細については一切書いてないのでわかりません。
このできごとの具体的年月日の記述もありませんので、いつごろのことだったのかピンポイントで期日の特定はできませんが、「奇術五十年」の巻末年表によると、1932年~1935年の間のニューヨークでのできごとだと推測できますし、天海のほうが二年早くニューヨークのステージに立っていたとありますから、1935年前後のことと思われます。天海はメモ魔ですし、この「記者」は芸能雑誌「ビルボード」の記者ですから、名前くらいメモしてありそうなものです。また、判定したのがSAMの代表者ならその名前と肩書(ニューヨークの支部長などのSAMでの肩書)くらいは書いてありそうなものですが、いずれも記載はありません。「奇術五十年」には、この後で、これが評判になって仕事が増えたとも書いてありますので、少なくともニューヨークのショー・ビジネスの世界ではかなり有名なできごとだったと思われます。カーディーニと天海との奇術合戦なら、奇術マニアでなくとも興味深いエピソードで、またマスコミにも面白い題材だったと思われますから、どこかにエピソードが残ってないか調べてみました。自分では調べ切れなかったので、こういう手品歴史分野に造詣の深い松山光伸氏にも調べてもらいました。その結果、天海とカーディーニの奇術合戦のエピソードは、一般の新聞や芸能誌どころか、肝心のSAMの機関誌である“MUM”にも見当たりませんでした。また、当時すでに刊行されていた奇術専門誌”THE SPHINX”にも掲載はありませんでした。これは面妖です。
加えて、最終的に、天海がタバコの奇術を止めて、カーディーニがボールの奇術を止めた、と書いてあります。職業奇術師としてはたいへんな「取り決め」です。アメリカ合衆国のことですから、これが口約束であるはずはなく、そのことを文書で取り交わして、双方の署名があるはずです。また、違約した場合のことも書かれているはずです。マジシャン同士のこの種の合意文書は珍しく、カーディーニも天海も物故者となったいま、オークションのephemeraのカテゴリーで出てきそうなものですが、カーディーニの遺品は、使っていたカードやボールを始め、写真や手紙など、かなり広範囲にいろいろなものがオークションに出て来ていますが、未だにこの文書は出品されていません。
ここからは私の想像です。カーディーニが天海の舞台に文句をつけたのは本当だと思います。しかし、このことは、それだけ天海の演技が優れていたことに他なりません。そこで天海の奇術がカーディーニの模倣であるかどうかを確かめるためにSAMの会員を含む複数の人間が二人の舞台を観て回ったものと思われます。その結果、ニューヨークには天海が先に来て演じていたため、カーディーニの主張は退けられることとなり、この問題を収めるために、双方が妥協して、二人が同時にニューヨークで出演しているときには、天海がタバコを、カーディーニがボールを、演じない、という取り決めをしたのだと思います。その際、天海には、ボールの手品はあなたのほうが上手だったとたまたま誰かが言ったのです。明らかなのは、二人がひとつのステージに出て、判定者の面前で競い合ったわけではないということです。
1961年に朝日新聞から出版された第一版の「あとがき」に、「奇術五十年」は、天海とおきぬが口述した内容に柳沢義胤氏が奇術歴史的考証を加えてまとめた、とありますから、「奇術合戦」も話を聞いてまとめるとこんなふうになるのかな、と思いました。
実に、こういうことはいわゆる自伝・自叙伝にはよくあることです。「奇術五十年」にある「明治・大正・昭和の3代にわたる天覧」も、松山光伸氏の考証によれば、明治天皇というのは石田天海の勘違いで、天海が直接奇術をご覧にいれたのは皇太子時代の大正天皇と昭和天皇だけとのことでした。ただし、書いた天海本人は、3代の天覧の栄に浴したと信じて書いています。このことは天海の生前には指摘する人もなく、天海は事実を知らず鬼籍に入ってしまいました。
「奇術五十年」に記載されていることで疑問に思うことはまだまだたくさんあるのですが、キリがありませんし、そもそもそれは本旨ではありませんので、このあたりに止めます。
石田天海のカード奇術を練習してみると、演技の冒頭にデックをシャッフルすることに拘っているのがわかります。この時代は誰しもそうでしたが、実はいまでも、カード奇術を始める前に、デックを客に渡してシャッフルさせることはきわめて重要であると考えるマジシャンは欧米にも多いのです。デックがセットしてあると、マジシャンは、いわば何でもできてしまうので、そういう意味ではフェアではありません。したがって、天海のカード奇術は、どれも最初に客にデックをシャッフルさせることが普通です。そうでない場合は、必ずフォールス・シャッフルしてから始めます。Juan Tamarizも、あのフルデックをセットする”mnemonica”で、しつこいくらいにフォールス・シャッフルに言及しています。したがって、カード奇術を演じる際には、まずデックを客にシャッフルさせるかマジシャンが自分でシャッフルしてみせるのが原則だということを今回改めて石田天海から学びました。(了)
(2021年8月31日)
オークションで落札したバーノン所蔵品など麦谷さんならではの貴重なコレクションの紹介を楽しく拝見させていただきました。
ところで写真6にある天海のバーノンへの献辞が読めないのですが何と書かれているのか興味があります。写真7の献辞には1969 Aug. 2とあるので三越劇場でバーノンを招待して行われたテンヨー手品フェスティバル開催日(8/3)の前日であることが分かりますね。
松山さん
コメントありがとうございます。
麦谷さんの許可を得て、写真3, 5,6,7の解像度を上げました。
「天海とカーディニの奇術合戦」に関する重要な史実が発見されました。加藤英夫さんが見世物興行年表ブログに「驚ろいた大統領 裁判所で奇術比べした天海」という読売新聞(昭和6年5月25日)の記事が掲載されていることを見つけられました。
これは長い間、日本奇術界で謎であった「天海とカーディニの奇術合戦」の時期を推定する重要な情報です。
改めて、石田天海著『奇術五十年』を確認すると、
天海の第1回帰朝公演が新橋演舞場で行われたのは昭和6年(1931年)5月であることが分かります。
この時に読売新聞が天海から「カーディニとの奇術合戦」の話を聞いて記事にしたわけですから、奇術合戦の時期は昭和5年(1930年)12月以前であると考えられます。(天海が帰国したのは昭和6年(1931年)の正月のため)
また、天海がロサンゼルスからアメリカ横断三千マイルの自動車旅行をしてニューヨークに向けて出発したのが1929年の夏であると書かれていますので、結局、1929年8月~1930年12月の間に裁判所で奇術合戦が行われたものと思われます。
従って、『奇術五十年』の本文と年表が間違っていたことが判明しました。
本文では天海が米国に戻った後、昭和7年(1932年)10月17日以降に
「カーディニとの奇術合戦」が行われたように記載されています。
そこで、見世物興行年表ブログの管理人の樋口保美さんに新聞記事の転載許可をお願いしたところ、
「私は天勝調査のみぎり、読売新聞でたまたまこれを見つけ転載しただけです。これが手品史のお役に立つようなら、どうぞご自由に転載してください。」
とのありがたいご返事をいただきました。
樋口保美さんに改めて感謝します。
松山です。私の印象です。
読売の記事は、天海さんの演技を見たあとにインタビューしたものを掲載したものと考えられます。ただ以下の理由で、そこには記者の想像が加わっていた可能性が大いにあるように感じます。
1.天海さんは『奇術五十年』で3度の天覧の話に触れたりしていますが、もしこの話が本当であれば何故フーバー大統領に見せたというエピソードについて『奇術五十年』で触れていないのかという疑問が湧きます。
2.フーバー大統領に会って見せたことが新聞に出たとされていますが議会図書館で閲覧できる米国の主要紙すべて(1927-1931の間)にそれを示すような記事は見つかっていません。
3.「天一がカーネギー未亡人に演技を見せた」という新聞記事もありましたが、あれも天一が「億万長者の未亡人に見せた」という話を耳にした記者が勝手に「カーネギーの未亡人に見せた」と解釈して記事にしたものであることが分かっています(カーネギーはその時点でまだ生きていました)。
こういった諸点から考えて、やはり一次情報を確認しない限りは、信用度は低いように思います。
松山さん、コメントありがとうございます。
今後、奇術史研究者によって一次情報が発掘されるといいですね。
私が読売新聞の記事を見つけていたのに、その記事に疑問点があるのを指摘するのはおかしいかもしれませんが、ひとつだけこの新聞記事の中に間違いがあるのを指摘させていただきます。
読売新聞の記事には、”カーデン(Cardini)は年若ではあるが長くアメリカに居たので天海より-と足早くその奇術をやっていたのだらう”、と書かれていますが、Cardiniがアメリカに渡ったのは1926年で、天海が天勝とともにアメリカに渡ったのは1924年で、そのままアメリカに在住したはずです。したがって、この新聞記事も正確ではないことになります。新聞の記事だからといって、すべてが正しいと考えるのは危険です。新聞社にその情報を伝えたのは誰であったかも重要なことだと思います。歴史の記述の中には、そのように情報源が明記されていないものが多いことが、歴史をねじまげるひとつの要因になっているのではないでしょうか。
加藤英夫
加藤さん、コメントありがとうございます。
たしかに「新聞の記事だからといって、すべてが正しいと考えるのは危険です。」という点はおっしゃる通りです。
”カーデン(Cardini)は年若ではあるが長くアメリカに居たので天海より-と足早くその奇術をやっていたのだらう”という記載ですが、「長くアメリカに居たので」というところは誤りだと思いますが、「天海より-と足早くその奇術をやっていたのだらう」というところは必ずしも誤りだとは言えない気がしています。
『奇術五十年』のテンカイの「時計とタバコ」の節には「さてそうこうするうち、カード奇術では世界的な巨匠のカーディニが、Aクラス劇場に来演した。彼はそのとき、カードやシガレットの奇術をみせた。これをまのあたりにみて、私は今までにない感銘をうけた。」と書かれています。(研究時代1927~1929)
ところで、読売新聞の記事で年代が合わない点が二つあるのに気が付きました。
(1)冒頭の「九年以前にアメリカへ渡り」
新橋演舞場に出演した1931年(昭和6年)の9年前は1922年(大正11年)の計算となりますが、アメリカへ渡ったのは、1924年(大正13年)のはずです。
(2)「この人が四年ばかり前にワシントンに出て」
4年前は1927年(昭和2年)の計算ですが、この頃、天海はロス郊外に家を借りていた時代です。
いろいろと検証が必要な新聞記事であることが分かってきました。
石田隆信さんから、コメントをいただきましたので、了解を得て転載します。
「1931年の読売新聞の記事は興味深い内容でした。
しかし、そこでの裁判の結果は二人ともそのまま演じてよいことになっています。それではカーディニは引き下がらなかったと思います。
天海氏は1931年1月から1932年9月まで日本で過ごされ、
1932年10月からはロサンゼルス、1933年の春はシカゴです。
1933年の夏か秋にニューヨークへ入るまでその後の状況が分かっていなかったと思います。
その結果が、天海とカーディニの奇術合戦に結びついたとも考えられます。
読売新聞の記事と「奇術五十年」の奇術合戦とは、内容が大きく違っています。
1933年の奇術合戦に関しては、はっきり証明するものがありませんが、1933年の奇術合戦もあったと考えた方がよいのではないかと思いました。
現段階での単なる私の考えで、確信のあるものではありません。」
2021年の天海研究成果をまとめました。
You actually make it seem really easy along with your presentation but I find
this topic to be actually one thing which I believe I’d never understand.
It seems too complex and extremely wide for me. I’m taking
a look ahead on your next post, I will attempt to get the
hang of it! Escape room