番外編「天海とカーディニの奇術合戦について」

中村安夫

「天海とカーディニの奇術合戦」について

2021年は長い間、日本奇術界で謎であった「天海とカーディニの奇術合戦」の時期と場所が、日本有数の奇術研究家の調査により明らかになりました。

(1)石田天海著『奇術五十年』(1961年,1975年,1998年)

『記者と、SAMの代表者との立ち会いで、決着をつけようということになった。その時、別々な劇場で互いに技を競った結果、彼より私のほうが二年も早くニューヨークのステージに出ていたため、私の勝利に終わった。つまり私が先輩というわけである。ボールの奇術は、私のほうがうまく、タバコは互角の判定が下った。そこで私がタバコを引っ込め、彼がボールの奇術をやめることで話がついた。』

(2)麦谷 眞里氏の問題提起(2021年9月3日)
※MN7Webサイト「石田天海とカーディーニの奇術合戦」より

『このできごとの具体的年月日の記述もありませんので、いつごろのことだったのかピンポイントで期日の特定はできませんが、「奇術五十年」の巻末年表によると、1932年~1935年の間のニューヨークでのできごとだと推測できますし、天海のほうが二年早くニューヨークのステージに立っていたとありますから、1935年前後のことと思われます。天海はメモ魔ですし、この「記者」は芸能雑誌「ビルボード」の記者ですから、名前くらいメモしてありそうなものです。また、判定したのがSAMの代表者ならその名前と肩書(ニューヨークの支部長などのSAMでの肩書)くらいは書いてありそうなものですが、いずれも記載はありません。』

(3)「驚ろいた大統領 裁判所で奇術比べした天海」
※読売新聞(昭和6年5月25日)の記事より
見世物興行年表ブログ(管理人:樋口保美氏)に表題の新聞記事が掲載されているのを加藤英夫氏が発見しました。(2021年9月8日)
昭和6年(1931年)5月に天海が第1回帰朝公演を新橋演舞場で行った際に、読売新聞が天海から「カーディニとの奇術合戦」の話を聞いて記事にしました。

『この人が四年ばかり前にワシントンに出て、指先の奇術に鮮やかな所を見せ、割れるような大人気を取っていると、矢張り指先の奇術を売り物にしているカーデンといふ英国奇術士から槍が出た。それは自分のやっている奇術と同じ事を演るのは怪しからんからやめろといふのである。天海はそんな抗議を取り上げず、そのままにして置くと、カーデンはたうとうこの問題を裁判所に持ち出した。
(中略)
その中に例の裁判の日となり、天海はカーデンと共に裁判所に呼ばれたが、裁判長は二人に指先の奇術比べをしろといふ註文。二人とも好い気持ちで客席に見立て秘術を尽くしあったが、どっちもうまいのでほとほと困った裁判長。たうとうこんな判決を下した。それによると「カーデンは年若ではあるが長くアメリカに居たので天海より一と足早くその奇術をやっていたのだらう。天海はカーデンより年上だから同じ奇術をカーデンよりさきに工夫したものに違ひない。依って二人とも同じ奇術をやっても差支ない。」といふことであったさうである。』

【コメント】
『奇術五十年』に書かれた時期と場所、裁定結果が違う情報が発見されたことになります。
奇術五十年:1933年~1935年の間のニューヨーク、立会人はビルボード誌の記者とSAMの代表者、別々の劇場で互いに技を競った結果、天海の勝利、天海はタバコの奇術を止め、カーディニはボールの奇術を止めるという判定。
読売新聞:1931年5月以前、裁判所で二人とも同じ奇術をやっても差支ないという裁定。

(4)John Fisher著『Cardini: The Suave Deceiver』(2007年)
加藤英夫氏と小野坂東氏が、2007年に発行されたカーディニの本に詳しい記載があることを発見しました。(2021年秋)

・1927年3月:カーディニがシガレットのアクトをN.V.A.(National Vaudeville Artists)の演目保護部門(ProtectedMaterial Department)に登録。(#5655)
・1930年2月21日:カーディニが天海に対して抗議。
・1930年3月7日:V.M.P.A(Vaudeville Managers’ Protective Association)の調停者のパット・ケーシーの事務所でフーディニと天海が話し合い。
・1930年3月11日:パット・ケーシーが以下の裁定内容を手紙で通知。
「カーディニはシガレットのアクトをN.V.A.に登録していることにより、そのアクトを占有的に使用できるものとし、天海夫妻は使用を止めること。その部分を他のアクトにさし替えるための猶予期間として、2 週間をカーディニは許可する。」

【コメント】
1931年の読売新聞に記載された「裁判所」は実際にはV.M.P.A(Vaudeville Managers’ Protective Association)の調停者のパット・ケーシーの事務所であり、天海とカーディニが奇術合戦をしたのは、1930年3月7日でした。その裁定結果は4日後の3月11日にパット・ケーシーが手紙で二人に通知したことが判明しました。

『奇術五十年』の記載との食い違いについては、以下のことが考えられます。
(1)天海夫妻が口述した内容に柳沢義胤氏が奇術歴史的考証を加えてまとめた本であるため、時期や内容に不正確な内容が紛れ込んだ。
(2)奇術合戦の通訳をしたのはクマという日本人であるが、通訳内容が正確ではなかった。

なお、石田隆信氏は1930年はカーディニからの抗議に対する話し合いであり、『奇術五十年』の奇術合戦とは、内容が大きく違っていることから、確証がないものの1933年の奇術合戦もあったと考えた方がよいのではないかという考えを述べています。

(2022/1/2)

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