石田天海・おきぬ帰国関連資料 第6回

昭和33年(1958)3月14日、プレジデント・クリーブランド号でアメリカ本土より出航【河合勝コレクション】

河合 勝

6.石田天海・おきぬ夫妻、アメリカから4回目の一時帰国

天海夫妻は、昭和24年(1949)5月13日に帰国。約6カ月間滞在するが、その間の活動について、著書『奇術五十年』などから抜粋する。
①東京アマチュア・マジシアンズ・クラブ(TAMC)の会員一同が、明治記念館で歓迎パーティーを開催する。
②TAMCの例会に出席。
③昭和24年5月26日、天海は和歌山の金沢孝に「金沢天耕」の名前を与える。
④昭和24年6月24日、宮中にて天皇、皇后両陛下に奇術を供する。
⑤東京朝日新聞社、学習院、日本赤十字本社、宇都宮、秋田、長岡などで、慰問活動として学童に奇術を披露する。


◆TAMCの例会に出席

前列左から、田中仙樵、緒方知三郎、天海  ※図は石田天海著『奇術五十年』、昭和36年(1961)より転載

◆金沢天耕を襲名
石田おきぬは、東海奇術家協会機関誌『東海マジシャン』127号(昭和48年1月1日発行)の「続 歩みの跡」(その2)」の中で次のように述べている。
「(前略)私達が最初に奇術の世界に入ったのは、天洋先生の一座でした。(中略)天海・おきぬの名前は天洋さんが付けて下さいました。ただ、天海は最初奇術界に入るにあたって自分で天耕と名乗りました。これは天海のお姉さんのとつぎ先の愛知県蒲郡のお寺のご住職が耕雲と云われましたので、そこに話しまして耕の字をいただき、天耕と名乗り天洋一座に入ったわけですが、少しの間名乗っただけで、まもなく天海になりました。のちに天耕の名前は和歌山の金沢孝さんにゆずりました」。
襲名のいきさつについては、金沢天耕著『酔筆 奇術偏狂記』に書かれている。
「昭和二十四年、天海師夫妻が戦後はじめて日本へ帰って来た。これも普通では帰られぬためハワイから日本への観光旅行団の一員として来日したのだ。その貴重な日程をさいて来和されたことは、全く我々にとって感謝に耐えなかった。(中略)その時、『ついでに私に天耕の名前を頂戴できませんか』」と切り出すと、『これはいい。天耕は私が天海を名のる前の懐しい名前です』と言って快く、天耕襲名を許すという免状をいただいたが、この免状はいずれも、日本に二つとない貴重な免状である」。

天耕襲名の免許状  ※図は金沢天耕著『酔筆 奇術偏狂記』、昭和38年(1963)より転載

◆アメリカへ帰国
天海とおきぬは、昭和24年11月初めに日本を出国。1949年11月16日にホノルル着。途中ハワイで3カ月ほど滞在したのち、1950年1月30日にサンフランシスコに到着。その後ロサンゼルスに居を構え活動を再開する。

「天海夫妻のパスポート」

ホノルル着

サンフランシスコ着

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2021/7/15)

⇒ バックナンバー
1.柳沢義胤が昭和22年頃、ホノルル在住の石田天海宛てに差し出した郵便はがき

2.山崎広子が昭和22年頃、ホノルル在住の天海宛てに差し出した郵便はがき

3.緒方知三郎が昭和22年頃、ホノルル在住の石田天海宛てに差し出した郵便はがき

4.天海夫妻「第五回 音楽と演芸の夕」に特別出演

5.天海夫妻「日本難民救済基金募集 慈善音楽大会」に特別出演

石田天海・おきぬ帰国関連資料 第6回” に対して1件のコメントがあります。

  1. admin_user_02 より:

    松山光伸さんから、コメントが寄せられましたので、
    転載させていただきます。

    「これは天海のお姉さんのとつぎ先の愛知県蒲郡のお寺のご住職が耕雲と云われましたので、そこに話しまして耕の字をいただき、天耕と名乗り天洋一座に入ったわけですが」

    上記に関し、少し知っていることを加えます。この蒲郡のお寺は天桂院といいます。その天桂院の住職(28世)から直接伺った話によると、ここに書かれているお姉さんの名は「たき」といいます。天海のお姉さんではなく「いわ」(おきぬさんの本名)のお姉さんです。天海から見れば義理のお姉さんで、そのような関係でも義理の弟が「お姉さん」と呼ぶのはよくあることで間違いではありませんが、読者が誤解する可能性があるのでコメントを付けました。

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