番外編「石田天海師の「三代の天覧」に関する記憶違い」

『奇術五十年』1975年ユニコン貿易出版部より(1964年5月18日)

中村安夫

石田天海師の「三代の天覧」に関する記憶違い

石田天海『奇術演技研究メモ』よりの連載は第28回「見せ上手に見上手」まで続く予定ですが、番外編として、『奇術五十年』におけるエピソードを紹介します。

石田天海著『奇術五十年』では、明治、大正、昭和の三代の天皇に天覧演技を行ったことが書かれています。

(1)明治43年(1910年)11月 明治天皇

この軍隊生活中で、ただひとつ忘れ得ない思い出がある。それは明治大帝に奇術をご覧に入れたことである。まったく唐突な話であるが、入隊二年目には、隊の演芸係のようなことをしていた。つまり、軍旗祭だとか記念日などには、しかるべき芸達者を隊内から選抜して、聯隊長や上官を前に演芸のプログラムを繰りひろげる係がそれだ。たまたまそのころ師団演習が行われて、明治天皇が名古屋の離官においでになり、私はその儀伎兵として任務についた。

ある日、上官殿の命令で、陛下の旅情をおなぐさめ申し上げる趣旨で、何か芸を天覧に供えよとのことであった。もっとも今日の時代とはわけがちがって、天子さまをみると目がつぶれるといわれた時代だから、命令をきいただけで体がこまかくふるえる有様だった。「陸軍歩兵一等卒石田貞次郎。ただいまより手品をはじめるであります」最敬礼をして始めたのはいいが、何をどうやったのか、まるきり無我夢中のうちに終わってしまった。あとで陪席の士官にたずねると、なかなかの出来栄えだったとのこと。

(『奇術五十年』p.24)

(2)大正11年(1922年)4月16日 大正天皇

ちょうど高橋是清内閣の大正十一年、英国のウィンザー公が来朝された。このとき総理のお声がかりで、大正天皇とウィンザー公に奇術をご覧に入れることになって、首相官邸が会場に当てられた。そのときは天勝の水芸と私のカードとボールの奇術だけお目にかけた。しかし官内省のお役人がなかなかやかましく、演技中は天皇を見てはいかん、必ず横を向いてやれといわれて、これにはホトホト閉口した。

(『奇術五十年』p.28)

(3)昭和24年(1949年)6月 昭和天皇

この日本の滞在中、私どもの忘れることはできないのは、御殿場にご静養中の秩父官殿下ご夫妻をご慰問申し上げ、つづいて六月二十六日、宮中にお召しをうけたことだった。このとき、表御座所の大広間で、天皇・皇后両陛下に奇術を一時間余にわたってご覧に入れ、皇太子はじめ、五十数方の各宮様もご覧下さった。敗戦の責任を一身に負われた陛下のご苦衷を拝察して、万感胸に迫るものがあったが、陛下は終始微笑と拍手をもって、私どもの奇術に応えられた。これで私は、明治、大正、昭和の三代の天皇に、奇術でご奉仕申し上げることができた。まことにはからずも、私の生涯を飾る大きな喜びである。

(『奇術五十年』p.117)

(4)昭和39年(1964年)5月18日 昭和天皇

『奇術五十年』ユニコン貿易出版部版では、椿山荘における竹友会の席上両陛下の御前公演を終わって陛下を見送っている場面の写真が掲載されています。

ゲッティイメージズ(Getty Images)のWebサイトで”tenkai magic”と入力して検索すると、この時の別の写真が表示されます。残念ながら、Webサイトへの転載は許可されていませんので、説明文だけ紹介します。

天皇陛下、学習院初等科の同窓会パーティーにご出席
1964年5月18日、東京の椿山荘で開催された学習院初等科同窓会パーティーに出席する歌手の梓みちよ(左)とマジシャンの石田天海。(Photo by 朝日新聞 via Getty Images)

【コメント】

この石田天海師の「三代の天覧」に関して、松山光伸氏は天海師の思い違いがあったことを、数々の史料を基に、(株) 東京マジックのWebサイト「マジック ラビリンス」上で発表されました。【2017-12-15記】

興味深い内容ですので、是非お読みください。

■石田天海師の「三代の天覧」に関する記憶違い(第1回)

■石田天海師の「三代の天覧」に関する記憶違い(第2回)

(2021/8/8)

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